第一章 雨、ときどき、女の子【1】
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娘を亡くした僕と11歳の少女。僕らの忘れられない夏が始まる。
長い雨の切れ間に、女の子を拾った。
拾う、なんて繊細さの欠片もない、本来なら人間に対して使うのは憚られる言葉がぴったりくるような姿で、少女は道端にうずくまっていた。
陰鬱な雲が空を覆い続けて久しい七月の半ば、暑さと湿気のダブルパンチに疲れ果て、そろそろ日本中が梅雨明けを待ち焦がれる頃のこと。
ふと今朝の買い物で購入し忘れたものがあったことに気づき、譲はギィと鳴る古いアパートのドアを開け、ねずみ色の街に踏み出した。
共用廊下のフェンスに引っかけてあったビニール傘を手に取ろうとして、あれ、と空を見上げる。ちょうど雨が上がったばかりのようだった。変なところで運がいい。濡れた鉄製の外階段を慎重に降り、大通り沿いのドラッグストアに向かおうと左に曲がりかけたところで、驚いて足を止めた。
道路に引かれた白線の内側、譲の膝の高さほどの場所に、黄色い帽子が浮かんでいる。
目を瞬き、ようやくその正体を認識した。隣のコインパーキングのフェンスに寄りかかるようにして、学校指定のものと思われる帽子をかぶった小さな女の子が、地べたに座り込んでいた。
帽子だけが真っ先に視界に飛び込んできたのは、彼女が頭を垂れていて、髪や顔がすっぽりと黄色い鍔に隠れていたからのようだった。細い人差し指を地面に伸ばし、アスファルトにできた水溜まりの表面を、指先で力なく掻き回している。
真っ昼間に、小学生がこんなところで何をしているのだろう。
同じ学校の子どもたちが近くにいないかと、辺りを見回した。しかし、目に入ったのは、畳んだ傘を杖代わりに歩く背の曲がった老人と、向かいの一軒家の敷地から塀を越えてせり出している、緑の葉を重そうに茂らせた木の枝だけだった。
このまま立ち去ってしまおうか、それとも、としばらく逡巡した挙句、やはり見過ごせずに上半身を屈める。
「……大丈夫?」
声をかけると、女の子はぴくりと肩を震わせ、黄色い帽子の下からこちらを見上げてきた。
「そんなところに座ってたら、服が濡れちゃうよ」
そう口に出してから、はっとする。
少女は、すでにずぶ濡れだった。
ウサギのイラストが描かれた白い半袖Tシャツが肌に張りつき、タンクトップ型の下着がうっすらと透けている。レモン色の膝丈スカートは泥水で汚れ、そこから伸びた細い両脚には、ところどころに赤い擦り傷があった。
よく見ると、黄色い帽子も、両耳の横でおさげにした黒髪も、すっかり濡れている。そういえば、少女は傘を持っていないようだった。さっきまで家の中にいたから気づかなかったが、よほど勢いよく雨が降っていたのだろうか。もしくは、傘もささずに、小雨の降る中を長々と歩いていたのかもしれない。
十歳には満たないくらいか、と少女の華奢な身体つきから見当をつけた。
最近の小学生にしては珍しく、肌は褐色に焼けている。まっすぐに切り揃えた前髪の下で、瞳の大きな目が二つ、こちらを向いていた。
顔に対して大きすぎる不織布マスクのせいで、表情はよく分からない。黄色い帽子から白いスニーカーまで、全体的に濡れて薄汚れた格好をしている中、そのマスクだけがなぜか、袋から出したばかりの新品のように見えた。
ランドセルやリュックを背負っていないところを見るに、下校途中というわけではなさそうだ。この近くで校外授業をしていて、教師やクラスメートからはぐれ、迷子になってしまったのだろうか。──いや、安直に考えるのはよくない。服の汚れぶりや擦り傷の具合からすると、他の子からいじめを受けていて、下校中に水溜まりに突き飛ばされ、ランドセルを奪われたという可能性もある。
迷子か、いじめか。
いずれにしろ、通りすがりの大人が見て見ぬふりをできる状態ではなかった。少なくとも、譲には無理だ。赤信号に変わりそうな横断歩道を渡っている足の悪い高齢者や、ベビーカーを押しつつドアを開けようとしている若い母親でさえつい気になって手助けしてしまうのに、ましてや、自分の住むアパートの目の前に座り込んでいる、擦り傷を負った泥だらけの女の子をこのまま放置するなんて。
「あの……君、名前は? どこの小学校?」
譲がさらに身を屈めて尋ねた瞬間、少女の瞳が怯えたように揺れた。ぱっと立ち上がり、一目散に逃げようとする。
「あ、ちょっと待って!」
慌てて後を追い、肩に手をかけようとする。しかし、彼女は驚くほど足が速かった。とてもではないが、運動不足の中年男がついていけるスピードではない。
みるみるうちに、少女の背中が遠くなっていく。そのまま周りも見ずに十字路に突入するのではないかとひやひやしていると、突如、彼女がもんどりうって転倒した。
どうやら、濡れた道路に足を滑らせたようだった。追いつくのを諦めて緩めかけていた歩調を再び速め、アスファルトにへばりついている少女のもとへと駆け寄る。「痛くなかった?」と心配して尋ねると、彼女は地面に四つん這いになったまま、こちらを睨むように見上げてきた。
「どうして、名前を言わなきゃいけないの?」
「……え?」
「おじさんは? 名前を訊くなら、先に自分が言ってよ!」
意外にも鋭い声を浴びせられ、思わずたじろぐ。