会ったばかりの十歳の女の子に強い力で縋りつかれ、心臓がひっくり返りそうになった。濡れてさぞ冷えているだろうと思いきや、意外なほどの肌の温もりが腕に直接伝わってきて、余計に心を搔き乱される。
「怖いの。こんな変な場所で、また一人になるなんて嫌。一緒にいさせて。お願い」
「いや、そう言われても……おじさんは、だって、おじさんだから」
気が動転した拍子に、つい日本語がおかしくなった。今の自分が、普段ではありえないほど平静を失っているのが分かる。だが彼女は気にも留めない様子で、「譲さんのおうちに行かせて!」と懇願してきた。律儀にも、先ほどの自己紹介を覚えていたらしい。
ぽつり、ぽつりと雨粒が連続で降ってきた。ちぃ子が黄色い帽子に手をやり、不安げに顔を歪めて灰色の空を見上げる。
時間の猶予はなさそうだった。
小さくため息をつき、辺りを見回す。
そこまで必死に言われると、断る術が思いつかなかった。押しに弱いのは、自分の悪いところだ。昔から自覚はあって、事あるたびに直そうと努めているのに、元来の性格はなかなか変えられない。
幸か不幸か、見える範囲に人の姿はなかった。車の通りもない。無理を言われているのはこちらなのだから、やましいことは何一つないのだが、さすがに単身者用のアパートに女児を連れ込む現場を人に見られたくはなかった。
──仕方ない。
「じゃあ、おいで」
ちぃ子が今にも泣きそうになっているのを察し、あえて軽い口調で声をかける。くるりと背を向けて歩き出すと、小刻みの足音が後ろからついてきた。
記憶もない。
両親もそばにいない。
来たことのない街に、気がつけば一人きりで佇んでいた。
タイムスリップの真偽はどうであれ、その恐怖はどれほどのものだろう。
少女の心境を想像し、重々しい気分で鉄製の外階段を上る。だが後ろからは、「あ、おうち、ここだったんだぁ」という思いのほか明るい声が聞こえてきた。
雨宿りができる場所を確保できて、ひとまず安心したのかもしれない。こちらが心配していたほど、憔悴しきっているわけではないようだった。
ドアの鍵を開け、ちぃ子を招き入れる。小学生──しかも、よりによって、十歳の女の子──を自宅に上げるのは、なんとも複雑な気分だった。
胸の奥底が、ズキン、と痛む。
靴を脱ぎ、廊下を進んだ。背後に足音が聞こえないことに気づいて振り返ると、ちぃ子はスニーカーを履いたまま、玄関に立ち尽くしていた。全身がずぶ濡れのまま室内に入っていいものかどうか、ためらっているようだ。
それはそうか、と玄関を入ってすぐ左手にある白い扉を開ける。「ここに、そのまま」と誘導すると、ちぃ子は大きく頷いて汚れたスニーカーを脱ぎ、大きな一歩で直接ユニットバスに飛び込んだ。あまり見慣れないのか、トイレと洗面台と浴室が一体になった狭い空間を、物珍しそうに見回している。
「ちょっと待ってて。今、タオルと着替えを持ってくるから」
そう言い置いて、急いで廊下の奥へと向かう。ベッドとテレビが置かれているだけの殺風景な部屋に入り、クローゼットを開けた。できるだけ使用感のない綺麗なバスタオルを選び、ベッドの上に置く。それから背伸びをして、収納スペースの上段から、大きな段ボール箱を取り出した。
開けるのは久しぶりだった。
心臓をわしづかみにされた気分になりながら、中身を物色する。ぬいぐるみ。アルバム。電動の鉛筆削り。マフラー。カーディガン。ようやく出てきた半袖のワンピースをバスタオルの上に重ね、さらに底に手を突っ込んで探ると、ポップな星柄のパンツとキャミソール型の肌着が出てきた。よくこんなものまで取っておいたものだ、と自分自身に呆れながら、タオルと着替え一式をちぃ子のもとに持っていく。
「これを使って。服は、サイズが合わなかったらごめんね」
「わ、着替えまで……ありがとう! シャワーも借りていい?」
「うん、どうぞ」
雨の中を傘もささずに歩き回り、疲れ果てて地べたに座り込んでいたのだから、身体中が汚れているはずだ。汗もかいているに違いない。タオルで拭くだけでなく、早く綺麗に洗い流したいのだろう。
浴室の勝手を簡単に説明してから、ユニットバスを後にする。
シャワーの水音が聞こえてきた。
なんとなく落ち着かない。自分以外の人間が同じ家にいる感覚は、思えば久しぶりに味わうものだった。
中年男に耳をそばだてられるのは嫌だろうと、廊下と部屋を仕切る引き戸をいったん閉め、段ボール箱を元通りに片付ける。ついでに、机の上に散らばっていた袋や文房具類も、まとめてクローゼットの上部に押し込んだ。
そわそわする気持ちが、多少は和らぐ。テレビをつけ、昼間のワイドショーを眺めながら、ちぃ子が出てくるのをぼんやりと待った。