…先生?」
 譲が首を傾げると、ちぃ子ははっとした表情でこちらに目をやった。彼女の全身の動きがぴたりと止まる。
「──キリスト愛の家」
「え?」言葉の前半が不明瞭で、よく聞き取れなかった。
「先生と、いろんな子たちと、一緒に住んでるの」
「それって…児童養護施設?」
 ちぃ子はしばし黙った後、小さく首を縦に動かし、「うん、養護施設」と億劫そうに言った。
 彼女がお笑い番組を一緒に見ると話した「みんな」とは、親や兄弟姉妹ではなく、同じ施設に入所している子どもたちを指していたのだと気づく。
 急に影が差した彼女の表情を見る限り、深い事情がありそうだった。孤児なのか。それとも被虐待児か。詳しくは分からないが、何らかの理由により親元で暮らすことができない、特殊な境遇の子であることは確かだ。無邪気なようでいて、突然過度に遠慮をするなど子どもらしくない態度を見せることがたびたびあったのは、その複雑な生い立ちのせいだったのか。
 ちぃ子はそれ以上何も話したくなさそうに、じっと目を伏せている。ここでずけずけと事情を尋ねるほど、こちらも無神経ではなかった。
 キリスト愛の家。児童養護施設。
 何かが脳内でうごめいている。しかしその正体は判然としない。
 若干の気持ち悪さが、後に残った。
「もしかして、思い出したの? 自分の名前とか、住んでいる場所とか」
「ううん」譲の期待に反し、ちぃ子は力なく首を横に振った。「それは分かんない。お父さんやお母さんとじゃなくて、施設に住んでるってことを思い出しただけ」
「おじさんがテレビのことを訊いたからかな」
「そうかも」
 こうした質問も、記憶が蘇るきっかけになるのか。
 だとしたら、彼女の正体を探るため、他にもいろいろ尋ねてみたほうがよさそうだ。譲が頭を捻っていると、ちぃ子が日に焼けた腕を胸の前で組み、不満を吐露した。
「あーあ、私だって、聖子せいこちゃんや明菜あきなちゃんが歌ってるとこ、見たいのになぁ。学校に行くとみんな、その話なんだもん」
 はあ、とちぃ子が可愛らしくため息をついた。その言葉で我に返り、「流行ってるのはその二人?」と尋ねる。
「そうだよ! 最近はずっとそう」
「他に有名な歌手はいる?」
「うーん、キョンキョン? あとは男の人だけど、チェッカーズ」
 ちぃ子が鼻歌を歌い始める。やや音程が外れているが、大ヒット曲『涙のリクエスト』のようだった。
 松田まつだ聖子と中森なかもり明菜の二大アイドル時代、そして小泉こいずみ今日子きょうこにチェッカーズ。──これでほとんど年代が絞り込める気がしないでもない。
「ねえねえ、聖子ちゃんや明菜ちゃんって、未来でもちゃんと人気?」
「うーん、そうだね、さすがにちぃ子ちゃんの時代ほどではないけど」──松田聖子は今も毎年紅白に出場するような現役歌手で、中森明菜は二〇二一年現在活動休止中ということは、ネタバレしないほうがいいだろう。
「私と同じくらいの年で、聖子ちゃんたちみたいなすごいアイドルって出てくる?」
「いなくはないと思うよ」──例えば譲と同い年の有名人でいうと、元SMAPの草彅くさなぎつよし、TOKIOの国分こくぶん太一たいちなど。残念ながら、ちぃ子が思い浮かべているようなソロの女性アイドルが大活躍する時代は、おニャン子クラブや光GENJIが台頭した八〇年代後半には終焉することになるが。
「わぁっ、どんな人?」
「イケメンかな」
…いけめん?」
 顔がイケてる男性のことだと説明すると、「変な言葉。食べ物かと思った。ラーメンとかそうめんみたいな」とちぃ子は頬を膨らませた。同じ日本語を喋っているはずなのに、たまに外国人を相手にしているような気分になる。「ヤバい」だとか「キレる」だとか、譲が大人になってから現在の用法が定着したような言葉は、あまり使わないほうがよさそうだ。
 他に質問できることはないだろうか、と考える。自分が子どもの頃に何をしていたかを振り返ろうとしたが、外遊びと漫画とテレビくらいしか思い出せなかった。漫画なら、『キャプテンつばさ』『キンにくマン』『北斗ほくとけん』『ドラゴンボール』あたりか。いや、ドラゴンボールはまだ連載開始前かもしれない。それ以前に、少年ジャンプを回し読みして熱狂していたのは男子だけで、ちぃ子はさほど馴染みがないだろう。
 彼女の記憶をもっと積極的に刺激したいのに、なかなかいい質問が浮かばなかった。