第三章 父と娘と【2】

君といた日の続き

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前回のあらすじ

娘の美玖を亡くしたのに自由に泣けない譲の分までありったけの涙を流そうとしてくれるちぃ子を見て、譲はその存在にようやく現実味を感じるようになった。

イラスト かない
イラスト かない

 古い記憶がうずいたのは、シャワーから出た後のことだった。安らかな寝息が聞こえる暗い部屋にそっと戻り、床に敷いた掛け布団の上にごろりと寝転がったとき。
 夕方にさんざん街を歩き回ったせいか、それとも初対面の少女に対して気を使いすぎたせいなのか、どうやらゆずる自身も相当疲れていたようだった。ふかふかの布団に全身を沈めるや否や、あっという間に眠りの世界へと引っ張られる。
 夢うつつの間をさまよい始めた瞬間、唐突に、耳元で声が響いた。
 ──ちぃ子!
 はっとして目を開ける。
 幻覚か。
 いや、違う。
 今の声は、昔、どこかで。
 ──ちぃ子!
 記憶の奥底で、また声がした。
 あ、と思い出す。
 この三十七年間、常に胸の片隅にあった名前が、ぼんやりとした暗闇に浮かび上がってきた。
 そうだ──よしいけ

       ◇

 ぴゅうと冷たい風が吹いた。さみぃ、さみぃ、と五人揃って足踏みをする。
 十一月を霜月というのだと、最近学校で習った。まだ月の初めだから霜なんて下りやしないけれど、だからといって寒くないなんてことはないのに、クラスの男子はまだ誰も長ズボンを履こうとしない。
子どもは風の子、元気な子。果たしてどいつが、冬になっても、年が明けても、雪が降っても半ズボンのままでいられるか。譲も例に漏れず、暗黙の了解のうちに発生した競争への参加者の一員だった。
 二十円の『さくらんぼ餅』を付属の爪楊枝でつつきながら、仲間と連れ立って、集合場所の公園へと歩く。自分で買うなら十円の『蒲焼さん太郎』か『コーラグミ』だけれど、今日はヨウタにおごってもらった。譲だけでなく、一緒に駄菓子屋に寄った四人全員が。
 ちぇっ、と先頭を歩いているヨウタがぼやく。
「せっかくの新しい千円札だったのによぉ。もう八百円に減っちゃったよ」
「だってヨウタ、見せびらかすんだもん」ケンスケがおどけた声で答えた。「『今日は金持ちの俺がおごってやらぁ!』って意味だと思うじゃん」
「違うんだって! ちょうどお母さんから新しいお札をもらったから、珍しいし、みんなに見せようと思っただけなんだって」
「はいはい、分かった、分かった。今度いっぱいお小遣いもらったら、次は俺がカッコよく払うから」
「嘘だぁ。ケンスケ、いつも百円か二百円しか持ってねーじゃん」
「バレた? じゃ、代わりに譲が」
「いやいや、なんで俺なんだよ!」
 急に会話に巻き込まれ、思わず笑ってしまう。手に持った『さくらんぼ餅』を落とさないように気をつけながら、譲は歩く速度を上げて、前を歩く二人に追いついた。
「譲ぅ、それ早く食べちゃってよ。他のみんなにもおごれって言われたら、俺のお小遣いが一日でパーになっちゃう」
「今日、そんなにたくさん来るの?」
「俺ら五人と、先に行ってるシンたちと、五組の奴らと…合わせて十五人くらいかな? あ、あと、『愛の家』の子が二人、来るっぽい」
 ヨウタの答えを聞いて、譲は目を丸くした。
「えっ、『愛の家』って、児童館の近くにある、あそこ?」
「そっそー」
「あそこに住んでる子たちって、俺らと同じ学校じゃないよね?」
「そっそー」
「一緒に遊ぶの初めてかも」
 適当な返事を繰り返していたヨウタが、「あ、譲、そーなんだ?」とこちらを振り向いた。
「五組の奴らがよく遊んでるらしくてさ。俺らも何度か交ぜてもらったことあるんだけど、別に普通の子たちだよ。な、ケンスケ?」
「そっそー」
 今度はケンスケがヨウタの口調をそっくりコピーする。「真似すんなよぉ」とヨウタが隣を歩く背の高い坊主頭を叩くと、ケンスケが「いってえ!」と大げさに頭を抱え込んだ。
 なんたらキリスト愛の家、だっけ。確か正式な名前は門のところに書いてあったはずだけれど、前半の漢字が難しくて忘れてしまった。
 小学校に上がってすぐの頃から、ここは何の建物なんだろうと不思議に思っていた。自分よりずっと小さい子たちから、中学生や高校生のお兄さんお姉さんまで、いろんな人が敷地に出入りするのを通りすがりによく見ていたからだ。「あそこって何かの学校?」とようやくお母さんに訊いてみたのは、二年生の秋、運動会の帰り道だった。
 あれはね、養護施設、っていうの。昔は孤児院って呼んでたわねえ。お父さんやお母さんがいない子が、何十人も集まって、一緒に暮らしてるのよ。そういう子たちが、横浜よこはまとか小田原おだわらとか、県内のいろんなところから、ここにやってくるんだって。