第四章 ちぃ子、君は【2】

君といた日の続き

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前回のあらすじ

わずか十歳でこの世を去った──しかも見知らぬ男に無残に殺害された彼女の名は吉池千佳。ちぃ子。君は、彼女なんじゃないか?

イラスト かない
イラスト かない

 ──吉池よしいけ千佳ちか
 彼女の正体を意識するたび、感傷的な気分になる。それを気づかせまいと、ゆずるはあえて明るい声で問いかけた。
「そういえば、今日やることを決めてなかったね。どこか行きたいところとか、やってみたいことはある?」
「あっ、そうか。ディズニーランドは結局、一か月後になっちゃったもんねぇ」
 ちぃ子が腕組みをし、うーんと唸った。すぐに答えが聞けるものかと思ったが、なかなか続く言葉が出てこない。念願のディズニーランド以外、ぱっと思い浮かぶものがないようだ。
 それなら選択肢を出してあげたほうがいいだろうかと、子どもの好きそうな行き先や遊びをひととおり列挙してみることにする。
「海水浴は?」
「うーん」
「プールでもいいよ」
「うーん」
「キャンプ? 山登り? ピクニック?」
「うーん」
「少し遠出すれば、イチゴ狩りなんかもできるかもしれない。あとは牧場で動物を見たり、ソフトクリームを食べたり」
「うーん」
 すべて、生前の美玖みくと、家族三人で夏休みに実行したことがあるイベントだった。譲も紗友里さゆりも本来インドア派なのだが、特に紗友里が「子どもには自然の中でいろんなことを体験させてあげなきゃ!」と義務感に燃えていたため、まとまった休みが取れると積極的に車で各地に繰り出していたのだ。
 おかげで、美玖の病気が発覚する前までに、子どもが喜びそうな場所にはひととおり行くことができていた。常に夫婦主導で行き先を決めてしまったことだけは心残りだが、学校で宿題に出される日記のネタには事欠かなかったはずだ。
「あとはそうだな、公園で鉄棒や縄跳びをしてみるとか」
「うーん…縄跳びかぁ」
 気合いの入ったお出かけに抵抗があるのなら、とハードルを下げてみたつもりだったが、ちぃ子の反応は相変わらず芳しくなかった。
 擬似的な父親である譲に対して、何か遠慮しているのだろうか。ディズニーランドのチケットを取ったときは、あれほど嬉しそうにしていたのに。
 彼女の本音を引き出す糸口を探そうと、「普段はどんな遊びをしてるの?」と尋ねると、「外遊び」という答えが返ってきた。これだけ日焼けしているのだから、まあそれはそうだろう。「あとはヨーヨーとか」という彼女の補足に、うんうんと頷いた。自分も一時期ハマっていた記憶がある。ちょうどちぃ子と同じ、小学校中学年くらいの頃だったろうか。
「でもね」
 ちぃ子が目を伏せ、言いにくそうに言葉を押し出した。
「本当はね、家の中で遊ぶのもすごく好きなんだ。絵を描いたり、本を読んだり」
…そうなの?」
「いつも外遊びばかりしてるのは、放課後にどこにも出かけないと、施設の先生に怒られるから。晴れの日は外でお友達と遊びなさい、風邪でもなければここにいちゃダメよ、って。まあ、鬼ごっこもドッジボールも、鉄棒も縄跳びも、海もプールも、別に全部好きなんだけどね、せっかくだからパパとは、おうちでゆっくりしてみたいなぁ、なんて」
 彼女の言葉に納得させられると同時に、内心驚いた。
 典型的なお出かけスポットを口では並べ立ててみたものの、実は譲も、美玖と家で過ごす時間をもっと大切にすればよかったと考えていたのだ。休みのたびに家族三人で遠出をしたことはいい思い出だし、それはそれで一つの正解なのだが、一方で慌ただしすぎたような気もしていた。床に寝転びながらDVDを見たり、お菓子を食べつつだらだらと団欒だんらんをしてみたり、もっとそういう時間の使い方をしてもよかったのではないか──と。
 思わず、顔がほころぶ。
「なんだ、ちぃ子もインドア派なのか。実は俺もだから、ほっとしたよ」
「本当? よかった!」
 ちぃ子が安心したように微笑み返してきた。その表情がかつての美玖に重なり、愛おしさと寂しさが同時に胸に宿る。
「だけど、せっかく髪を綺麗に三つ編みにしたのに、どこにも出かけなくていいの? 今日は雨もあまり降らないみたいだけど」
「いいの。髪を結ぶのは、私がパパと一緒にやりたかっただけだから」
 その言葉に、頬がいっそう緩み、だらしない表情になりかけた。譲がブラシで分け目を作るのにひどく手間取っていたあの時間も、ちぃ子にとっては、決して無駄ではなかったのだ。それはすなわち、譲にとっても。
「じゃあ今日は、家でまったりしようか」
…まったり?」
「あれ、伝わらない?」
「まったりした味、とかなら聞いたことあるけど」
 そうか、と脳をフル回転させ、理解する。今の時代の言葉に慣れすぎて、すっかり忘れていた。『ヤバい』『寒い』『痛い』などと同じように、『まったり』も近年になって昔と違う意味が加わった言葉なのだ。味わいが穏やかであるさま、転じて、ゆったりしているさま。
 そのことを説明すると、「家でのんびりしよう、って普通に言えばいいのに」とちぃ子は頬を膨らませた。
「パパって変な言葉使うから、なんだか外国人みたい!」
「それ、さっき同じことをちぃ子に対して思ったよ」
「ええー?」
 気の抜けた会話をしつつ、チケット購入の役目を終えたノートパソコンを閉じ、椅子から立ち上がってクローゼットを開けた。ちぃ子がすかさず、横から覗き込んでくる。
「何してるの?」
「もしかしたら、遊べるものがあるんじゃないかと思ってね。確か小学生向けのおもちゃはなかったと思うけど、ちぃ子が気に入るものが見つかるかもしれない」
 美玖の遺品が入った大きな段ボール箱を床に下ろし、蓋を開けて衣類を取り出した。雑多な思い出の品が、その下に所狭しと詰まっている。「よかったら、ちょっと見てごらん」と促すと、ちぃ子は遠慮がちに箱を覗き、中身を物色し始めた。
 赤ちゃんのときに一度握るとなかなか離さなかった、お気に入りのガラガラ。
 親戚から出産祝いにもらった、木製のおままごとセット。
 小学校に上がる少し前からハマり始め、ほとんどのページがボロボロになってしまった折り紙の本。
 保育園の卒園アルバム、の本体は紗友里が持っているためここにないのだが、それに付属していた動画DVD。
 二重跳びができるようになりやすいという評判を聞いて購入した、持ち手部分の長い縄跳び。
 三年生の途中まで毎日のように書いていた、使いかけの日記帳。
 いとこのお姉さんからもらい、入院中もたまに使っていた裁縫セット。
「あっ、これ、使っていい?」
 ちぃ子が突然、嬉しそうな声を上げた。彼女が胸に抱え込んで立ち上がったのは、学校指定の絵の具セットだった。
「パパとお絵描きするの、楽しそう! 一緒にやらない?」
 その言葉を聞いて、またも目を見張る。
 ちぃ子の提案を聞いた瞬間に脳裏に蘇ったのは、離婚届を役所に提出した数日後、一緒に遺品整理をしていたときの妻の姿だった。譲が引っ越し先に持っていくことが決まった絵の具セットを撫でながら、紗友里は後悔したようにつぶやいていた。
 ──絵の具ってさ、片付けが面倒だからって、いつも保育園や学校任せだったよね。時間を取って、一緒にやってあげればよかったなぁ。せっかく美玖は絵を描くのが好きだったのに、色鉛筆やクレヨンしか、家では使わせてあげなくて。
 確かにそうだね、と譲も紗友里に深く同意した。絵の具で水彩画を描く。まだ元気だったときの美玖に、譲たち夫婦がやってあげられなかったこと、十年間でやり残してしまったことの、具体的な一つ。