第六章 だから、ここに【1】

君といた日の続き

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前回のあらすじ

ちぃ子は分かっているのだろうか。自分が吉池千佳であることを、三十七年前の誘拐殺人事件の被害者であることを―。譲はちぃ子の言葉に動揺してしまう。

イラスト かない
イラスト かない
 その晩、ちぃ子は消えなかった。
 どこかで鳩が鳴いている。その音を目覚まし時計代わりにしてベッドから降りてきた彼女は、朝の陽光がわずかに差し込む狭い部屋の中を見回し、しきりに首をひねっていた。
「おはよう。早いね」
  布団に寝転がったまま声をかけると、ちぃ子は驚いたようにこちらを振り向いた。
「ああ、パパ、起きてたんだね。おはよう」
「そこは『んちゃ』じゃないんだ」
「んちゃ!」
  右手を上げてアラレちゃん式の挨拶を元気よく繰り出したものの、ちぃ子はバツの悪そうな顔をしている。
「おっかしいなぁ…ディズニーランドがパパとの最後の思い出になるんじゃないかなって、なんとなくそんな気がしてたのに。だから昨日はプレゼントをあげて、寝る前にお別れも言ったのに…私の勘、外れちゃったみたい」
「俺は嬉しいけどね。今日もまたちぃ子に会えて」
「私もだよ! だけど、ねえ」
  ちぃ子は腕組みをし、顎を斜め前に突き出して天井を見上げた。自分の直感が当たらなかったことに、納得がいっていないようだ。
  彼女の可愛らしい仕草を目の当たりにしているだけで、朝から爽やかな幸福感を覚える。しかし、それ以上に、重苦しい気持ちが胸にのしかかっていた。
  ちぃ子は事態を呑み込めていない様子だが、譲にとってはもとより想定内だった。今朝も “娘”と同じ部屋で目覚めるだろうということも。そして、譲の今日の行動によって、彼女との真の別れの瞬間が訪れるはずだということも。
  昨夜、ちぃ子が就寝前にシャワーを浴びている間に、電話を一本かけた。返ってきた答えは、譲の推測を裏付けるものだった。
  考えを整理するのには、丸々一晩かかった。たった今起きたふりをしたものの、本当は一睡もしていない。昨日の疲れがまだ残っているし、明らかに寝不足のはずなのに、頭は怖いくらいに冴えわたっていた。
  ──行きたくない。
  ──でも、行かないと。
  心の中で、二人の自分が戦っていた。孤独に喘ぎ、来たる別れの時を受け入れられず、ちぃ子とのひと夏を極限まで引き延ばそうとする自分。彼女のためを思えばこうするしかないのだと、理性的な判断を下し、自らの背中を押そうとしている自分。
  まるで子どもと大人だった。感情のままに駄々をこねる自分を、もう一人の自分が懸命に諭している。
  今日、譲がちぃ子をあそこへ連れていかなければ、彼女はもう少しそばにいてくれるのだろう。
  それでもやはり、気づいてしまった真実を、見て見ぬふりするわけにはいかない。
  葛藤を抱えながらも、無理やりにこやかな笑顔を作り、提案した。
「今日、ちぃ子と行きたい場所があるんだ。一緒に来てくれるかな」
「どこ?」
「秘密」
「えー、いいけど」ちぃ子が顎に手を当て、天井を見上げた。「これが本当に本当の、パパとの最後の思い出作り?」
「そう、なのかもしれない」
  答えに詰まりながら立ち上がり、布団を三つ折りに畳んだ。
「まあ、出かける前に、まずは腹ごしらえだな」
「目玉焼き、私、作ろっか?」
「いいよ、俺がやるから。今日は気合いを入れて、ベーコンエッグにしよう」
  そう言いながら冷蔵庫を開けると、うわーい、やったぁ、という無邪気な歓声が耳に飛び込んできた。
  ちぃ子は十歳なのに、料理が上手い。この一か月、譲と一緒にいろいろなレシピに初挑戦するうちに、さらに腕を磨いていた。朝ご飯の目玉焼きくらいもう簡単に作れるはずだが、ともに過ごす最後の日くらい、親らしく振る舞わせてほしい。
  カリカリに焼けたベーコンエッグに加え、ちぃ子がこの一か月でいろいろ比較してナンバーワンの評定を下した、スーパーで一斤百五十円の食パンを一枚ずつ焼いて食べ、出かける前の身支度をした。
  念のため、出会ったときとまったく同じ格好──ウサギのプリントが入った白いTシャツに、アップリケのついたレモン色の膝丈スカート、白いスニーカーに黄色い通学帽──をしてもらう。ベージュ色のトレーナーも、念のため腰に巻いて持たせた。ちぃ子は特に疑問を差し挟むこともせず、譲の依頼に従った。ディズニーランドが最後になるという予想こそ外れたものの、もう間もなく別れの時が訪れることを、科学では説明しようのない力でうすうす感じ取っているのだろう。
  駅まで歩き、子ども用の切符を買って改札を通り抜ける。横浜とは反対方面のホームに向かうと、「あれ、今日はこっちなんだ?」とちぃ子は意外そうな顔をした。
「もしかして、また海老名に行くの?」
「とりあえずね」
「お店、まだ開いてないんじゃない?」
「まあ、何とかなるよ」
  今日の目的が和やかなショッピングであるはずもないのに、意味もなく答えをはぐらかしながら、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
  横浜方面ならいざ知らず、通勤客と逆行する県央への電車は、採算が取れているのか心配になるほど空いていた。もうこの時代の電車には何度も乗っているはずなのに、ちぃ子は座席から立ち上がって、優先席の表示を読んだり、車内ビジョンの広告映像を見上げたりと、終始せわしなく歩き回っている。
  終点へと近づくにつれ、彼女の笑顔が次第に増え、何気ない身のこなしが小鳥のように軽やかになっていくのを、複雑な気分で眺めた。
  海老名駅に到着するとすぐ、ちぃ子は待ちきれないように電車から飛び出した。改札に切符を通し、ショッピングモールの方向に走っていこうとする彼女を、「そっちじゃないよ」と呼び止める。
「あれ? もーるで遊ぶんじゃないの?」
「ここでは電車を乗り換えるだけ。もうちょっと遠くまで行きたいんだ」
 かつてなく血色のいい顔に、はっとしたような表情が浮かぶ。
 ほんの一瞬だけ、ちぃ子が目を伏せた。
 今日の目的地がどこなのか、彼女はもう分かっているのかもしれなかった。