第八回 ①
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前回のあらすじ
阿賀野鈴、40歳、出版社文芸編集部勤務の編集者。バツイチ。妹の蘭に、編集長で上司の越場さんに恋しているのと聞かれたけれども、わからない。ただ、彼が死んでしまうその日まで、ずっと一緒に生きていきたい。越場さんを看取ってから私は死にたい。それが、今の私の幸せなんだということは、感じている。
阿賀野陸 三十五歳 グラフィック・デザイナー レタッチャー
東京。
Tホテル。
「やっぱりここには独特の匂いがあるんだよね」
「匂い、ですか?」
花ちゃんが、くんくんって顔を少し上向きにして匂いを嗅ぐ。いや、そういうんじゃなくて。確かに高級ホテルにありがちな良いフレグランスの香りは漂ってるけれど。シトラス系かなぁ。
「伝統と歴史とが相まって醸し出す雰囲気、って感じの」
あぁ、なるほどって花ちゃんが頷く。
「感じます。ここのロビーの空間なんかも」
花ちゃんは、このホテルに来るのも出版社の受賞パーティも初めてだそうだ。
そんなに大きくないところで開催されるケースもけっこうあるけれども、大体はこういう大きなホテルの大きな宴会場で行われる。その辺は出版社とその賞のスタンスによるのかな。
パーティに出席するのは、作家と各出版社の編集関係の人たちが大部分だけれど、受賞した作品が既に本になっている場合は、装幀家や出版に関係するグラフィック・デザイナーやイラストレーターも招待されることもある。
阿賀野達郎ぐらいになるといつもどんなパーティでも大抵招待状は届くんだけど、今回は父さんが装幀した本が受賞していた。なのできちんと出席しようと思っていたんだけど、どうにも腰の調子が悪いので代わりに行ってきてくれって頼まれた。ちょっとぎっくり腰っぽいんだ。そもそも父さんは若い頃にぎっくり腰をやってしまって癖になっているというか、座り仕事なのも相まって腰が徹底的に弱いんだ。その反対で基本立ち仕事であるフォトグラファーの母さんはめっちゃ力もあるし腰も強いんだけど。
ついでに、花ちゃんも連れていってあげるといいんじゃないかって。
デザイナーにとっては、こういうところのすべてのものが栄養になる。歴史ある建築物としての様々な物のディテールなんかはもちろんだけれど、その過ぎた時の重みが醸し出す雰囲気までもが。そういうのをきちんとインプット・アウトプットができないと、グラフィック・デザイナーとしてはやっていけなくなってしまう。
「やっぱり装幀家の人も、たくさん来るんですか?」
「いやそもそも装幀家っていう人種がそんなに多くないから。来ていてもほとんど顔を知られていないだろうし、一見しただけじゃわからないんじゃないかな」
「そうですよね」