第一回 引っ越し

あなたおかしいんだから

更新

 契約更新の通知は、郵便受けに入っていた。チラシと一緒に束ねて部屋に持ち込み、しばらく机の上に置いていた。夕方、コンビニに行く前に思い出して封を切る。 
 更新料と、次の一年分の賃料が書かれている。 
 スマホで家計簿アプリを開き、残高を見る。悪くない。そのまま更新することもできる。 
 しかし、もう少し検討しようと不動産サイトを開く。 
 駅から近いところ。 
 バストイレ別。 
 家賃は今より安いところ。 
 条件を入れて検索する。思ったよりたくさんある。 
 スクロールして、写真を見る。そのうちの一つに、妙に惹かれてタップする。
 外観が少し古いアパートだ。古いとは言っても汚いとは感じない。 
 間取りはワンルーム。内装の写真は白い壁とフローリング。 
 メールで問い合わせると即座に「内藤美香ないとうみかさん」というスタッフから返信が来る。数回メールでやりとりをして、明日内見をすることになった。ちょうど休みで、都合がいい。
 次の日、内藤さんと待ち合わせた駅に向かう。メールの印象どおり、はきはきと喋る、丁寧な女性だった。
 彼女に連れられて、気になった物件に行く。 
 駅から歩いて八分ほど。住宅街の中にあるから、静かな場所だ。
 二階の角部屋。この値段でエレベーターがついているのは嬉しい。
 部屋に入る。 
 窓の外には隣の建物の壁。外は快晴だったが、室内は少し暗かった。 
 結構いい部屋だな、と思う。様々な条件込みだと、「かなり」いい部屋かもしれない。はっきり言って、心が動いている。 
 私はここで、内藤さんに気になっていた質問をぶつける。 
「あの、前の住人の方が、かなり早く退去されたのが気になって」 
 注意深く様子を窺っても、内藤さんは特に顔色を変えることはない。 
「ああ、外国人の方で、急遽、お友達とレストランを開業されることになったみたいで」 
 納得できる理由だった。 
 その後、内藤さんは、「この場所は人気で、注目している人が何人もいる」「既に午前にも内見されたお客様が二人いた」と不動産屋によくある「早くしないとなくなっちゃうよ」的な営業をかけて来る。 
 私は一旦持ち帰って、ふたたび検討した。 
 営業に乗ったわけではないが、実際、条件は良いと思う。彼氏とは付き合って三か月ほどだが、お互い自分の時間を大切にしているタイプだし、同棲の話も出ていない。何より、ここにすれば、朝、もう二十分寝られる。 
 次の日、会社帰りに契約を決めた。 
 引っ越しは土曜日にした。両親と弟が手伝ってくれるからだ。 
 一か月ぶりに会う母の顔色は前よりマシになっている。祖母が亡くなってからふさぎ込んでいたが、試しに通い始めた絵画教室の先生がとても良い方で、友達もたくさんできたのだとか。少しだけ嬉しくなる。 
 あまりものを持っていない方だと思っていたけれど、かきあつめればそれなりにあるもので、段ボールは六箱。 
 父と弟が台車を使って部屋に運び入れてくれる。 
 私と母は荷解きをする。 
 服、本、キッチン用品、洗面用具。母は「もう少し明るい色の服を着たら?」と軽口を叩く。 
 弟の協力を得てベッドを組み立てる。ベッドを置き、カーテンを付けると、だいぶ生活空間が出来上がる。 
 そのあたりでピザを取って、四人で食べた。母は相変わらず絵画教室でできた友人の話ばかりして、父と弟をうんざりさせていた。 
 両親と弟が帰ってから、残ったほんの少しの作業に手をつける。 
 延長コードを差し、台所に電気ポットと炊飯器を並べる。歯ブラシを洗面台に置く。 
 夜はスーパーで弁当を買い、電子レンジで温めて食べた。 
 昼間家族がいたからか、あるいはここが喧噪とは無縁の場所だからか、静けさが耳を震わせるほど音がない。少し寂しくなって、早めに就寝することにした。 
 翌朝、寝違えてしまったようで、首に違和感があった。しかし、大事にするほどでもないので、そのまま会社に行く。 
 午前中はメールの処理。午後はデータ入力。昼休みは同僚二人とコンビニに行く。 
「引っ越ししたんだよね」 
 私と同い年の奈々子ななこに言われて、「うん」と答える。そして、社交辞令的に「今度遊びに来てよ」と言う。多分、本当に招くことはない。新しい家は、少し静かすぎて、誰かを呼んで騒ぐイメージが湧かない。 
 帰りに、彼氏の康太こうたと待ち合わせ、コスパのいいイタリアンで食事をとる。 
「前の部屋、気に入ってたじゃん」 
「そうだっけ?」 
 私が聞くと、康太は頷いた。 
「湯船が深くていい感じだって言ってたよ」 
「そうだった…かも」 
 新しい家の湯船は、そう深くもない。 
「まあでも、家賃安いし、会社に近くなったからね」 
「そっか。てっきり更新すると思ってたから、何か心境の変化でもあったのかなと」 
「ないない。新しい部屋にも遊びに来てね」 
 これは本音だ。新しく大きめのソファーを買ったのは、康太とくつろぐためでもある。 
 康太に言われて、心境の変化、という言葉について考える。何度考えても特にない。確かに、引っ越しで気分を変えたい人、実際に変わる人も多い。 
 でも私の生活にはその後も変化はなかった。 
 仕事は必ず定時に終える 。
 帰りにスーパーに寄り、自炊する日もあれば惣菜を買う日もある。 
 家に帰って食べて、風呂に入って、スマホを見る。眠くなったら寝る。 
 彼氏とは週に一、二回会う。駅で待ち合わせる。 
 映画を観る。外でごはんを食べる。たまにどちらかの家に泊まる。 
 それ以外の外出は、月に一、二回。カフェに行くか、買い物に行く。 
 予定がない休日は、昼過ぎまで寝ている。起きたら洗濯をする。動画を観るか読書をするかして、一日を終える。 
 新しい部屋での生活も、何も変わらない。同じ流れになった。