第二回 普通の会社員
更新
前回のあらすじ
駅から近いところ。バストイレ別。家賃は今より安いところ。条件を入れて検索する。思ったよりたくさんある。スクロールして、写真を見る。そのうちの一つに、妙に惹かれてタップする――。

帰宅してから、冷蔵庫を開けた。
パンが二つ入っていた。私は今日、パンを買った覚えがない。電子マネーのアプリを開く。購入履歴が見つからない。買っていないのに、ある。そういうことは、普通に考えたらありえない。
私はキッチンの椅子に座って、少し考えた。昨日現金で買っていたのかもしれない。
袋の底に、賞味期限が書いてある。まだ新しい。買ったのは今日か、昨日だろう。私は、昨日と今日の夜の記憶を、順番に思い出そうとした。
会社を出て、駅に向かって、スーパーに寄って、家に帰って——
そこから先が、ぼやける。
スマホを見た。母からLINEが来ていた。
――ちゃんと食べてる?
私は「食べてるよ」と返す。一体、何人から、何回同じことを聞かれなくてはならないのだろう。
母はまた、
――絵画教室の人に聞いたんだけど
――疲れてるときは白米を食べた方がいいって
――あと塩ね
と送ってきていた。
壊れたラジオみたいだ。何度も何度も、聞いたことを。でも。
ぼんやりと、塩、と思った。
棚に塩がある。私は指で少しつまんで舐めた。しょっぱい。口の中が引き締まる。
そのあと、買った覚えのないパンを食べた。一つ食べると、少しだけ頭が軽くなる。
胸の奥が落ち着く。体が『ここにいる』と思える。
私はもう一つのパンも食べた。
食べ終わると、さっきまでの不安が遠のいた。気分が良くなる。普通に戻る。普通という言葉を使うのは間違っている。でも、他に言い方がない。
次の日、仕事は少しだけうまくいった。ミスをしないで済んだ。ミスが前提の生活になっているから、それだけでもいい、今はそう思ってしまっている。
席に着く前に飴を口に入れた。昼休みもちゃんと食べた。午後、頭がぼんやりしそうになると、甘い飲み物を買った。そうすると、画面の文字がちゃんと読める。メールの文章が頭に残る。自分の指が思った通りに動く。
これは栄養だ、と結論づける。食べてストレスを解消しているわけではない。頭がぼんやりしているのは栄養が足りないせい。だから、食べればいい。食べて栄養を補給すればいい。
週末、クローゼットの中に見慣れない服が増えていた。
花柄の、派手な色のトップス。私の趣味ではない。でも、サイズは合っている。タグは外れている。ハンガーに掛かっている。私はそれを指で触った。布が新しい。
「いつ買ったの」
声に出して言う。返事はない。
スマホの購入履歴を見ると、通販サイトに記録がある。注文者は私。配送先もこの住所。受け取り日時も書いてある。その時間、私は何をしていた? 思い出せない。思い出せないことが増えている。
月が変わった頃から、会社の空気が変わった。
奈々子は話しかけてくれる。「大丈夫?」と心配してくれる。
でも、距離がある。目が笑っていない。笑っているのに、笑っていない。そういうのが分かるのは、私が奈々子のことをよく見ているからだろうか。嫌な自意識だ。
香里奈さんは、仕事の話しかしなくなった。
「これお願い」
「ここ確認して」
「送った?」
業務上、必要最低限。
前は、帰り際に「大丈夫?」と聞いてくれた。今は聞かない。聞かれる方がありがたいのか、聞かれない方がありがたいのか、自分でも分からない。
ミスは、減った日もあれば、増えた日もあった。
減った日は、私は心の中で「やっぱり食べると調子がいい」と思った。増えた日は、「今日は食べてもダメだった」と思った。
そういう風に考え始めていること自体が、変な気がする。
ある日、上司に呼ばれた。
今度は会議室ではなく、上司の席の横だった。周りの人に聞こえる距離。
「ちょっといいですか」
声色が違う。張り詰めている。立ち上がる。上司は私の方を見ずに、資料を机の上に置いた。
「これ、見た?」
私が作った資料。赤で修正が入っている。入っているという言葉がふさわしいと思えない。ほぼ、赤い。
上司は大きく溜息を吐いた。
「本当に確認しましたか」
分かっている。私はきっと、修正されて返却された資料を、そのまままた、提出したのだ。記憶はない。でも、やった。
「申し訳ありません……」
「申し訳ありませんじゃなくて、どうするの」
どうするの、と言われても、私はやっている。確認している。メモも取っている。チェックリストも作っている。やっているのに、抜ける。抜けるというか、抜けたことに気付けない。
「体調が悪いなら言ってください」
上司の声が少しだけ柔らかくなる。
「休むなり、病院へ行くなり」
「大丈夫です」
また言ってしまった。
「大丈夫じゃないから言ってるんですよ」
視線を感じる。奈々子が遠くでこちらを見ているのが分かった。香里奈さんは画面から目を離さない。
その場で頭を下げて、席に戻った。座った瞬間に、手が震えているのが分かった。私は震える手で、飴を探した。鞄の中に入っているはずだった。見つからない。机の引き出しを開ける。そこにもない。私は焦って、ペンケースを開け、ポーチを開け、鞄の底を探った。
香里奈さんが小さい声で言った。
「……大丈夫?」
私は顔を上げる。香里奈さんは目を逸らした。
「なんでもない」
香里奈さんはそれ以上言わない。
次の日、奈々子に話しかけようとした。話したいことがあったわけではない。「同僚と雑談をする普通の会社員」に戻りたかった。
「昨日さ」
奈々子は椅子を引いて立ち上がる。
「ごめん、今ちょっと」
そのままどこかへ行ってしまう。
香里奈さんも同じだった。
「香里奈さん、今、ちょっといいですか」
「ごめん、これ今やっちゃわないとだから」
顔を上げずに言う。明確な、拒絶。
嫌がられている。避けられている。「普通の会社員」には戻れなかった。
私は何をしたんだろう。何をしたか分からないのに、謝れない。謝れないから、許されない。


