第三回 供養
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前回のあらすじ
会社に行くのが、こんなに辛い日が来ると思わなかった。職場に入った瞬間に感じる、あの空気。……被害妄想だと思おうとした。でも、そうでないことは、私が一番分かっている。

午後、仕事はほとんど手につかなかった。
画面の文字が目に入らない。先輩の言葉が、何度も頭の中で再生される。
有名だよ。
みんな困ってる。
病院行った方がいい。
スマホで「内科 駅近」と検索する。とにかく、どこかに行きたかった。理由が欲しかった。
内科の待合室は、混んでいた。テレビでは、ワイドショーが流れている。番号札を持って座る。自分の呼吸が、やけに大きく感じる。
診察室で、私は、できるだけ感情を込めないで話す。
眠りが浅いこと。
ミスが増えたこと。
記憶が抜ける感じがあること。
魚肉ソーセージや独り言の話は、言えなかった。
医師は血圧を測り、喉を見て、簡単な診察をした。
「ちょっと血圧は高いですが、特に異常はないです。ストレスかもしれませんね」
それで終わった。
「待ってください……私、本当に困っていて……」
すると、精神科の名前を出される。
次の日、紹介してもらった精神科のクリニックにも行った。
内科医より穏やかな声で精神科医は言う。
「最近、環境変わりました?」
「ええと……引っ越しました」
「それは大きいですね」
私が奇行の話をしようか迷っていると、次々と話を聞かれる。結局、覚えていないことが多いこと、どうも変なことをしているらしいことを、ぼんやり話すことしかできなかった。
それで、カウンセリングを勧められた。
「時間をかけて、自分と向き合っていきましょう」
それが正しいのは分かる。でも、私が欲しいのは、もっと即効性のある答えだ。
家に帰る。
クローゼットを開ける。
増えた服が、そこにある。
パンを買った記憶は、ない。
でも、冷蔵庫を開けると、入っている。
私は床に座り込んだ。
写真の中の自分と、今の自分が、つながらない。
それなのに、同じ人間だ。
「私、どうなってるの」
声に出す。返事はない。病院も、会社も、誰も。
布団に入っても、眠れなかった。
目を閉じると、動画を思い出す。
暗い夜道。魚肉ソーセージ。叩かれる太もも。
私は目を開けたまま、天井を見つめ続けた。
このまま、何も分からないまま、日々が続くのだろうか。
そう考えたとき、胸の奥に、初めてはっきりした感情が生まれた。
怖い。
それは、体調が悪いからでも、仕事がうまくいかないからでもない。
自分が、自分の知らないところで、何かをしているという事実が、ひたすら恐ろしい。
その夜、私は久しぶりに、はっきりと夢を見た。部屋は現実と同じだった。天井の染みの位置も、カーテンの色も、床に置いた鞄も——なぜ夢だと分かったのかというと、祖母が立っていたからだ。
亡くなる前と同じ姿だった。小柄で、背中が少し丸くて、地味な色のカーディガンを羽織っている。
「あ」
声が漏れる。
祖母は「久しぶり」も「元気にしてた」もなく「疲れてるね」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。
責められない。避けられない。
ただ、見てくれている。目に涙が滲む。
「ちょっと……しんどくて」
そう答えると、祖母は小さく頷いた。
「ここね」
祖母は、部屋を見回して言う。
「前に、苦しんだ人がいた場所」
言い方は淡々としていた。怖がらせようという調子ではない。事実を事実として伝えている。
「若い女の人でね。ずいぶん、長いこと」
布団の中で息を詰めた。疑おうと思わなかった。「やっぱり」と思う自分がいる。
「ひどい扱いを受けて、自分の体を、自分のものだと思えなくなったまま、亡くなった」
夜に起きていること。
記憶が抜けること。
体が重くなっていく感じ。
やっぱり——やっぱり、そうなんだ。
「女の人は、怒ってるわけじゃないの。ただ、分からなくなってる。どこまでが自分で、どこからが他人か」
祖母と目が合う。
「あなた、優しいから」
そう言って、少しだけ困ったように笑った。
「優しいからね、無意識に、受け取っちゃってる」
「だから……だから私、変になるの?」
祖母は考え込むような顔をする。
「変っていうか……混ざってる」
「どうしたらいいの」
私は、ほとんど反射で聞いていた。


