第一回 いつもの朝

おくるひと

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「あらあ、上品なお味」
 これはつまり、味が薄いということ。
「そんな遠慮せんと、塩も砂糖もなんぼでも使つこてええのよ? お母さんは倹約家やったんやろか。こないだも、上品な恰好してはったもんねえ」
 これはつまり、私の家と母が貧乏くさいということ。
「それとなあ、やっぱり、一花いちか、すこし言葉遅いと思うんよ。診てもらった方がええんと違います?」
 私は夫をじっと見つめる。彼の目には何も映っていない。私の作った豚肉とレンコンの炒め物が、彼の口を通って胃に投げ捨てられる。
雄一ゆういちがこんくらいん時は、そらもうしゃべって喋って、家ん中にぎやかやったもんやけど…ねえ、雄一もそう思わへん?」
「そやね」
 少しでも健康になれるよう、というささやかな気遣いで炊いた五穀米も、咀嚼そしゃくされることはない。夫の膨れた腹が窮屈そうに上下する。それでお終いだ。
 私は、夫を雄一だとは思っていない。私の結婚した雄一は、知的で、白アスパラガスみたいに清潔感があって、気弱なところもあるが優しい男だ。豚みたいな呼吸をし、こどもの悪口を言われても黙っているような男ではない。知らない間に違うものにすり替わってしまったのだ。便宜上「夫」と呼ぶだけで、これは何か知らない生き物だ。
「なあ? そう思うよなあ? 美咲みさきさん、一花はやっぱり」
「早く出かけないと遅れちゃうんじゃない?」
 少し不自然だったかもしれない。夫がいつも家を出る時間まではあと十分もある。
「そやね」
 夫は汚らしい音を立てて大根の味噌汁を飲み干し、立ち上がった。整頓された衣類ケースに何のためらいもなく手を突っ込み、靴下を掴んでいる。
 夫の母親、公子きみこが甘ったるい声で何か声をかけている。
 夫は聞こえるか聞こえないかくらいの声で行ってきます、と言い、私とも、一花とも目を合わさずに出かけていく。
 私がぐちゃぐちゃになった衣類ケースを眺めていると、公子が大きくため息をつく。どうしたんですか? とか、そういう私の反応を待っていることは分かっている。だから、私は何も言わない。
「そうやって年寄りの説教やー言うて無視しよるけどなあ」
 公子は夫と話すときと比べ、私と話すときは、声のトーンがワントーン低い。
「無視なんかしてませんよ」
 努めて明るく言うが、自分で言っておいてどうかと思うくらい声が震えている。それに、公子の声を聞くと、どうしても関西のなまりが伝染うつる。関西圏の人間にとって、その地域の出身でないものに方言を使われるのは、耐えがたいことだと聞く。ましてや公子は、結婚して、関東に住むようになってからの方が長いのに、頑なに方言を使い続けているような人間なのだ。
 案の定、公子を怒らせてしまった。もともと細い目をさらにとがらせて、私をねめつけている。
「無視しとるやないの。なんや、馬鹿にされてるみたいやわ」
 馬鹿にしてるんですよー。
 あなたのことなんて完全に馬鹿のクソババアだと思ってるんですよー。
 そう言えたらどんなに楽なことだろう。それくらい強い性格だったら、どんなに。
「馬鹿になんてしてないですよ」
 私は口の端を力いっぱい持ち上げて笑顔を作る。口角が緊張してぶるぶると震える。
 公子は鼻で笑った。
「年寄りやから馬鹿にしとるんよね。ああ、怖い怖い。あんなあ、そやって年寄り扱いするけど、美咲さんはインスタなんてやらへんやろ?」
「そうですね」
 公子は生意気にも、最新型のタブレットを所有している。