第二回 最下層の人間

おくるひと

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前回のあらすじ

そもそも、どうしてこんなことになったのか? 変わってしまった夫、悪意の塊のような義母、そして、愛しいはずの娘は…。私の人生が変わった発端は、義父である馬場義之の死だった。

 義之は典型的な「昭和の男」だった。
 ポジティブな面を言えば、バイタリティにあふれた働き者。
 ネガティブな面は枚挙に遑がない。図々しく、デリカシーがなく、粗野で下品。それに、女を人間だと思っていない。もっと言えば、長男以外の男も、人間だと思っていなかったと思う。夫の実家で行われる親戚の集まりで、義之が笑顔を見せるのは夫にだけだった。
 そのような有様なので、夫の姉である桜子さくらこさんにも、弟である雄二ゆうじくんと雄三ゆうぞうくんにも、ひどく嫌われていた。
 さらに悲しいことに、夫も彼を愛していなかった。義之は横浜に一軒家を建て、三人の男児を大学まで卒業させたが、身内の誰も彼を尊敬していなかった。
 ともあれ、義之は元気だった。長年勤めていた大手金融機関を退職してからは、知り合いのツテで人材派遣会社の役員をやっていた。人間、五十を超えたらどこかしら体に不調が出るものだが、義之は肩こりすら体験したことがないと豪語していた。
 だから、死ぬなんて誰も思わなかった。
 義之は、しこたま飲んだ帰り道、ばたりと倒れてそのまま帰らぬ人となった。脳梗塞のうこうそくだった。
 誰からも愛されてはいなかったが、彼は確かに大事な人だった。
 まず、判明したのが雄三くんの借金だった。雄三くんはアパレルショップとカフェバーを経営していたが、資金繰りに随分困っていたらしい。毎月何十万か、義之から支援されていたが、それでも全く足りなかったようだ。本当に見たこともないくらいの額の借金が残っていた。雄三くんには奥さんと、まだ幼い子供が三人いた。とりあえず、横浜の家を売ることになった。それに雄三くんと公子に分配された遺産と、公子の貯金をすべて足しても、まだ足りなかった。
 私が他人事として眺めていられたのはそこまでだった。
 横浜の家がなくなった結果、公子が住む場所がなくなったからだ。
 雄二くんは、シンガポールで働いていた。それを理由に彼は実母との同居を拒否した。桜子さんは彼女の夫の実家で暮らしていて、当たり前だが引き取ることができないと言う。
 雄三くんは自分の不始末でこのような事態を招いたにもかかわらず、
「いちにいが引き取るのが筋だろ」
 と堂々とのたまった。
「それは雄三くんが言うことなのかしら」
 何も言わない夫に代わって私が言うと、
「いや、俺もそう思う」
 雄二くんが口を挟む。見ると、桜子さんも頷いていた。
「美咲さんは知らなかったでしょうけどね、私たちは本当、どんだけ苦労してきたことか。いちにいはね、一人だけ、なんでもやらせてもらってたんだから。お母さんの面倒くらい見ないと」
 私は夫の顔を見つめた。何を反論するでもなく、お茶をすすっていた。
「とにかく、お母さんは施設に入るような年でもないんだし。皆大変なんだから、美咲さんもよろしくね」
 夫はただ、黙っていた。そこで「そうだな、母さんの面倒くらい俺が見るよ」くらい言ってくれていたら、彼は今も雄一のままだったかもしれない。
 公子は私たちと同居することになった。
 家に来てすぐのとき、公子は大人しかった。哀れなくらい萎縮して見えた。私は明確に彼女に同情していた。夫の実家での彼女は、常に義之の横暴な注文に応え、忙しく働き、文句ひとつ言わず耐えていたように見えた。おそらく長年、そのようにふるまっていたせいで、義之が死んだ今となってもびくびくしているのだ。そう思って私は、
「お義母さん、もうここはお義母さんの家でもあるんですから、なんでも自由になさってくださいね」
 そう言った。公子は目を潤ませて「おおきに」と言った。ほとんど話してこなかった義母と、わずかに信頼関係が築けたような気がした。
 そうではなかった。あれは、ただ犬のように、家族内の序列を見極めていたに過ぎなかったのだ。あのとき、あんなことを言うべきではなかったのだ。犬のしつけと同じで、められてはいけなかったのだ。
 彼女は瞬く間に増長した。最初は、味噌汁の味付けだった。
 ひと月くらいたったころ、公子が毎朝味噌汁だけ残していることに気づいた。単純に汁物が苦手なのだ、と解釈した私は、公子のぶんだけ少なめによそうようにした。それでも毎朝味噌汁は残ったが、勿体もったいないな、とは思うものの特に気にすることもなかった。一花の子育てもあって、余計なことに気を回している暇はない。
 そう、確か夜だ。四人で食卓を囲み、いただきます、と手を合わせたときだった。
 公子が大きくため息をつく。私は腰痛でもひどいのかと思って、
「クッションいりますか?」
 そんなことを聞いた。これもまた、余計な一言だったと今は思う。完全に無視すればよかったのだ。