「とても良い朝だと思いませんか?」
 私は思わずうなずいてしまう。見知らぬ男が、広い店内で空いている座席もたくさんある中、なぜかわざわざ私の前に座ってくる。こんな異常な状況にあっても、私は目の前の男が危険な人間だとは思えなかった。それどころか、輝いてすらいるように見える。
「こんな朝がずっと続くといいのに」
 男は足を組み替えながらそう言った。
「おつらそうだ」
 男はじっと私の目を見る。虹彩の色が薄く、間接照明の光を受けてきらきらしている様子は星のようだ。
「つらく、なんて」
「隠さなくていいんですよ」
 店内にはゆったりした曲調のジャズがかかっている。ビジネスマンたちは相変わらず、熱心にパソコンに向き合っている。店員はカウンターに一人いるだけだ。誰もかれも、自分の目の前のことに集中している。
「誰も僕たちのことは見ていない」
 頬が濡れるのを感じた。泣いていることに気づいたのは少し後のことだった。
 男は相変わらず笑顔で―というか、もともと口角が上がっている顔なのだろう。その表情のまま、私を見守っている。心臓が跳ねる。何かよく分からない衝動が、むくむくと体の奥底から湧き上がってくる。
 私は決壊したダムのように話しはじめた。
 夫のこと、公子のこと、そして何より、一花のことを。
 一花の絵の話に差し掛かった時、男が指先でテーブルを三回叩いた。
 魔法が解けたかのように体がずしりと重くなった。顔面が熱を持つのが分かる。
 私は、初対面の若い男に、何もかも赤裸々に話し過ぎた。なぜこんなことをしてしまったのか分からない。目の前の男の見た目が良かったから、という理由なら、なおさらみっともなく、恥ずかしい。
「ごめんなさい、初対面の方に、こんな…どうしてこんなことしてしまったのか…」
「いいえ、本当はもっと伺いたいのですが、お時間ではないかな、と思いまして」
 腕時計を見ると、確かにそろそろ出ないと仕事に間に合わない時間になっていた。
「本当だ。すみません、こんな、長々と…」
 男は、ハハハ、と声をあげて笑った。少しとがった犬歯がのぞく。それもまた、魅力的だった。
「では、貴重なお話を伺ったお礼に、お会計は僕が持ちましょう」
「そんな!」
 伝票を持って立ち上がる彼に飲み物のお金を渡そうとするが、こんなときに限って鞄の中から財布が出てこない。
「いいんですよ。今度また、この喫茶店にいらしてください。そしてお話の続きを聞かせてくださいね」
 立ち去る男の後ろ姿に、
「あの、お名前は」
 男は顔だけ振り向いた。
「ニコです。ニコちゃんって呼んでもいいですよ」
 それだけ言って、彼は行ってしまった。
 私はしばし、男のいた空間を眺めた。
 荷物をまとめながらあたりをきょろきょろと見回すが、やはりまばらにいる客はこちらのことには無関心だった。
 あんなに綺麗な男がいたのだから、目で追う者がいてもよさそうだが―と、また、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくなる。
 私は反省しつつも、確信していた。きっとまた私は家を早く出て、この喫茶店に来てしまうだろう。ニコに会うために。

       *

 アルバイトを終えて帰宅すると、家の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 洗濯物が散乱し、椅子が蹴倒されている。床も壁も、出かける前とは色が変わっている。おぞましい色の赤い花。この絵は。
「これ、一体」
 どうしたんですか、と言う前に、公子が猛然と近付いてくる。ただでさえ小さい黒目が、もうほとんど見えなくなるくらい目を吊り上げている。
「どうしたんですかやないやろ! 電話かけても無視して!」
 公子は足を踏み鳴らした。
「私なんべん言うた? 早く病院連れていってってなんべん言うたかしら? 私のこと年寄りやからって馬鹿にして、無視したからや! そやから、こんな…」
「一花は、どこですか」
 公子が大騒ぎすればするほど、逆にびっくりするくらい気持ちがめていく。
「あんた、人の心とかないんか? 少しは申し訳ないとか思わへんの? 面倒を見てるんは」
 公子の声を意識から消す。そう決めただけで、つばを飛ばしてわめき散らしている彼女の言葉の内容が理解できなくなる。
 私は公子を避けて、ふすまを開ける。これだって、公子が来たから、一花はふすまで仕切られただけの場所で過ごすことになってしまったのだ。一花のために用意した部屋は、公子が堂々と使っている。
 一花は薄暗がりの中、一心不乱に手を動かしていた。もうほとんどクレヨンを使い切ってしまったようで、指で直接描いているようにさえ見える。
「一花」
 そう呼ぶと、一花はぴたりと動きを止めた。
 ゆっくりと顔をこちらに向ける。その動作すら、不気味に感じられる。しかし、私は母親だ。この子を産んだのは、私だ。
「一花」
 もう一度呼びかけると、一花は急に破顔した。
「ぷえれ」
 これだ。
 一花はこちらが何を話しても、こうして意味不明な言葉で返してくるのだ。「あー」とか「うー」のような喃語なんごならまだ良いが、まるでなんらかの意味を持つかのように聞こえるのが余計に私を傷付ける。
「びるぼなす」
 全く何を言っているか分からないのに、まるで私と会話しているかのような顔をして一花は笑っている。いや、恐らくは、本当に私と会話しようとしているのだ。私が理解できないだけだ。
 きっと、この話を周りにしたら、私の母のように「一花は天才だ」などと言うだろう。画力は誰の目にも歴然と高く、到底理解できない行動を取る。二歳にして、だ。でも、天才である必要なんてない。私はフツウの女の子が良かった。甘えん坊で、私のことをママと呼ぶ、稚拙ちせつな棒人間しか描けない、フツウの女の子が良かった。
 私は一花に近寄って行って、腕を引っ張り、強引に立たせる。
 一花は私を見上げ、また「ぷえれ」と言った。
「謝りなさい」
 一花は私を見て、心底幸せそうに微笑んでいる。手を繋いでくれたとでも思ったんだろうか。
「あやまりなさいよ」
 一花は笑いながら身をよじって私の手をふりほどこうとする。私はその手を握り締める。
「あやまりなさい!」

(つづく)