第四回「頑張っている人には、良いことがある」

おくるひと

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前回のあらすじ

「隠さなくていいんですよ」。地獄のような家から逃げ出した私の前に現れた、輝く美貌の男。何かよくわからない衝動が、むくむくと体の奥底から湧き上がり、夫のこと、義母のこと、娘のこと―初対面の相手にすべてを吐き出してしまう。

 あやまりなさい、と私は繰り返す。一花ははしゃぎ、声をあげて笑う。公子が入ってくる。何か喚き散らしているが、聞かない。私は一花に話している。一花にあやまりなさいと言っている。生まれてきたことを私に詫びてほしい。ごめんなさいと言って、その謎の言葉が通じる異界に帰ってほしい。私はあやまりなさいと繰り返す。
「ちょっとちょっと、お母さん」
 全く聞いたことがない溌溂とした声で我に返る。
 振り返ると、同世代くらいの男性と、年若い女の子が私の方を心配そうに見ている。青い制服。警察官だ。
「大丈夫ですか? お話聞きますよ」
 本当に優しい声だった。心底私を心配しているという感じだった。しかし、一瞬生まれた喜びの感情も、警察官たちの背後を見て一瞬で消えてしまった。
 夫が立っていた。こっちに視線は向けているのに、何の感情も読めない。動揺すらしていないようだ。
「雄一が通報したんよ、あんたがそんなんやから」
 公子がしゃしゃり出てきて、心優しい警察官たちに、勝手なことをベラベラベラベラ話している。ダマスクローズの香りが鼻をく。
「ほんまに、恥ずかしゅうて。お姉さんも、これから子育てとかすることもあるやろうけど、こんなんなったらあきまへんえ」
 若い女の子の警察官は、可哀想なほど戸惑っている。セクハラまがいの発言だが、相手は一般人だから、強く否定も肯定もしたくないのだろう。もう公子には腹も立たない。クソババアとして、どんどん嫌われればいい。
 そんなことより、夫のことだ。
 警察に通報したこと自体信じられない。私に声をかける気はなかったのだろうか。警察と一緒になって、私をいさめるようなことを言っているならまだいい。夫は、何も言わない。泥のようににごった目で、私を観察している。
 ニコの瞳を思い出した。光を反射して、輝いていた。
 ニコに会いたい。
 私は手をついて警察に謝った。

       *

「民事不介入って本当なんですよ。この、親子関係相談所とかいうところの連絡先を渡して、帰っちゃいました。ご主人とよく話し合って、ですって。そんなこと、できるわけないのにね」
 ニコは口を挟むことなく、私の話を聞いてくれる。この話をしたのは三回目かもしれない。けれど、「もう聞きました」なんて言わない。
 ニコとは、あれから、仕事がある日は必ず、仕事に行く前にカフェでおしゃべりをしている。
 ニコは、線の細い見た目に反して、運送業をやっているという。佐川急便のお兄さんのような、日焼けした筋骨隆々の肉体を持つ人間のイメージしかない、と言うと、
「僕の運ぶものは特別な荷物ですからね」
 そう言って笑う彼は、透き通るような白い肌をしている。
 本名は知らない。私も聞かない。仕事だって嘘かもしれない。
 ただ、私はそんなことはどうでもよかった。
 ニコは私を否定しない。クソババアではない。言葉も通じる。動くだけの泥ではない。
 恋愛ではない。この年になって、家庭もあって、そんな浮ついた気持ちなど持たない。ニコは私にとって美しい宝石だ。見ているだけで癒される。一緒にいるだけで、自分が特別なものだと感じられる。
「美咲さんは、本当に頑張ってこられたんですね」
 私は頷いた。
 そうだ、私は頑張ってきた。完璧な妻でも、母親でもない。でも、できる限りのことをやってきた。今もやっている。
 ニコは卑屈に謙遜などしなくても許してくれる。
「頑張っている人には、必ず良いことが起こるものです」
 こんな陳腐なセリフ、ふつう言われたら何を適当なことを、と腹が立ってしまうだろう。しかし、ニコには全く腹が立たない。ニコは本心からそう信じているのが分かるからだ。
「そうかもしれないですね。本当に…でも、早く起こってくれないかなあ。もう、疲れちゃって」
「もしかしたら、もう傍にあるかもしれませんよ」
 ニコは尖った犬歯を輝かせて言った。