「気付いていないだけです、きっと」
そうなのかなあ、という曖昧な相槌と裏腹に、私の心臓は跳ね上がった。
ニコは、もしかして、自分こそが私にとっての良いことである、と暗に主張しているのではないだろうか。
もしそういうことなら、もし、傍にあるというのが、ニコのことなら。
ニコは若い。それに、美しい。一方私は、どこへ行っても「おばさん」と呼ばれるような見た目だ。実年齢以上に老け込んでいることも自覚している。私とニコが並んで話す光景は、一体どう見えているのだろう。良くて年の離れた姉弟とか、お金で若い男を買っている年増女。悪ければ、親子にだって見えているかもしれない。
でも、それでも。
こんなふうに言ってくれているのなら、望みはあるかもしれない。ニコは、私と一緒にいたいと思っているのかもしれない。
家庭がありながら、他の男性に浮ついた気持ちをもって接することは恥ずかしいことだと思っている。でも、相手はニコだ。
どんなに恥ずかしくても、みじめでみっともなくても、倫理的に許されなくても、ニコと一緒にいられるなら、私はそんなものすべて捨ててしまうことができる。
「そろそろお時間では?」
ニコは指で三回机を叩いた。
「そうですね、なんか、ニコちゃんと話していると、時間が経つのが早くて」
そう言いながら私は荷物をまとめ、財布を取り出す。二回目以降、私はもちろん、自分のぶんは自分で払っている。最初の時のお金も返そうとしたのだが、ニコが固辞するので、それだけは未だ借りを作ったままなのだが。
「僕もですよ」
ニコは微笑みながら席を立つ。細身のスラックスが長い脚によく似合っている。
店を出ると、また会いましょう、と言ってから、振り返りもせず去って行く。私の体はまた、ずしりと重くなる。ニコは話が終わるといつもそっけない。
先ほどまでの高揚感は嘘のように消えてしまった。体を引きずるようにして仕事に向かう。
この、夢から醒めたような、崖から突き落とされたような絶望。喫茶店の前でニコと別れるたびに感じている。
それでもきっと私は、またここに来てしまう。
幸福な時間を求めてしまう。
*
夫が警察を呼んだあの日から、公子の当たりはますますキツい。
勝手に隣の部屋の住人に謝りに行って、私が虐待親で、警察を呼んだ、などと話していたことも知っている。本当に馬鹿なクソババアだ。もちろん私の名誉も失墜するかもしれないが、身内の恥を赤裸々に外に晒すような人間もまた、まともではないと評価されるのに。馬鹿だから、ということもあるだろうが、私が自分の息子の妻である、一応は身内である、という感覚も全くないのだろう。
一花は相変わらずだ。怒鳴りつけた私を恨むこともなく、かと言って母子の愛情に目覚めたわけでもなく、異界の言葉を話し、天才的な絵画を量産している。
砂壁に描かれた毒々しい花は、どんなに努力しても消えなかった。むしろ、滲んだせいで、そのおぞましさは強調され、部屋の空気を異様なものにしている。
私はホームセンターで購入した壁紙を上に張り付けた。
しかし、そんなことをしても無駄だ。あのうす皮一枚隔てた向こうには異界が広がっている。
「一花、どうしてこんなのになっちゃったんだろうね」
一花は私の言葉に反応して、
「ぷえれ り びるぼなす」
「なんて言ってるの」
やはり一花の言っていることは分からない。確実に、何か意味を持つ言葉であるはずなのに。惨めだ。馬鹿にされているような気分になる。
「びるぼなす」
「分かんないよ」
一花は鉛筆を使って、見事に陰影の付いた星を描いている。
クレヨンは取り上げたのに。忌々しい。
散乱したコピー用紙をまとめていると、ふすまの開く音がした。
「ちょっとあんた」
あの時以来、公子の中で私の格付けはさらに下がったらしい。もう名前を呼ばれることもない。
「なんや気付くことあらへんの」
公子は細い目で私をねめつけている。
私はできるだけ感情のこもらない声で、
「すみません、教えてくださらないと分からないです」
公子はわざとらしくため息をつく。
一体何度、こんな学芸会みたいなやり取りを繰り返さなければいけないのだろう。本人だって、うんざりしないのだろうか。それとも、そんな年齢でもないのに、既にボケが始まっているのだろうか。
「なんや忘れてるもんありませんか、って聞いとるんえ」
「分かりません」
すると、公子はこちらに何かを放ってよこした。
引き寄せて見てみると、米の袋だ。
「これでもまだ気付かへんの?」
(つづく)