「泥棒はあんたやないの」
「お米を買いに行かなくちゃ」
 公子の腕を振りほどく。
「お米がないんですから、買わないといけません」
「逃げるな」
 公子が私の髪を掴む。私は思い切り顔を振る。毛が何本か抜ける。頭皮が痛い。
 それでも、私は走り出した。
 公子が怒鳴っている。足が冷たい。冷え込む夜に、サンダルとワンピース一枚で出てきてしまったからこんなに寒いのだろうか。いや、違う。全身が凍えるように寒い。私は逃げる。ふたをしていた記憶があふれて止まらない。それが私を体の中心から底冷えさせていく。寒い。歯の根が合わない。ガタガタ震える。腕が痛い。頭が痛い。全身が痛い。ガタガタ震える。どうして。私が悪いのかもしれない。あのあとも、断れなかったから。寒い。私は泥棒じゃない。でも、お義母かあさんの花嫁姿の写真がある部屋で。痛い。自慢の浴場と、雄一の使っていた部屋と、それに、町田のホテルでも。痛い。ガタガタ震える。酒臭かった。私は泥棒。分かっていた。一花が生まれたときから、分かっていた。足が冷たい。雄一ののっぺりした顔じゃない。太い眉毛と、二重のまぶた。生まれないでほしかった。雄一はべっとりとした目で一花を見ていた。クレヨンで描いた赤い花。寒い。気持ちが悪い。生まれてきたならせめて、謝ってほしかった。私は泥棒。謝ってほしい。生まれたことを。寒い。死んで。
「どうされましたか?」
 春が来たのかと思うような暖かさだった。でも、それは違った。私は、二つの腕に抱き留められていた。
「美咲さん、夜にこんな格好で外に出ては、危険ですよ」
 ニコが立っていた。暗がりでもはっきり分かる、お星さまみたいな瞳。一体どうしてニコがここにいるのだろう。漆黒のスーツを着て、髪の毛をオールバックにまとめている。
「ニコちゃん、私、私…」
 ニコは、私の肩に優しく手を置いた。
「ちょうど僕も美咲さんにお会いしたいと思っていたんですよ」
 ニコの声を聞いていると、次第に気持ちが落ち着いてくる。パラパラと小雨が降っていることに気付いた。ニコは傘の柄を肩にかけている。よく見れば、ニコの後ろには何人か人が並んでいる。皆、一様に漆黒のスーツを着用している。
「ごめんなさい、お仕事中…」
「いえ、違うんです。違わないんですけど…なんて言ったらいいのかな、説明って難しいな」
 ニコはさりげなく傘を私の方に寄せて、濡れないようにしてくれている。
「その、美咲さんにお願いしたいことがありまして。美咲さんを探していたんです」
 ニコには迷惑をかけっぱなしだから、何か助けられることがあるというなら、とても嬉しい。でも。
「ニコちゃん、私がこの辺に住んでること、どうして…」
「言ってませんでしたっけ。僕の職場も近くにあるんですよ。歩いていれば、お会いすることもあるかなーって」
 ニコの微笑みには屈託くったくがない。私は少しでも「ストーカー」などという単語を思い浮かべてしまったことを恥じた。だいたい、こんなおばさんに、ニコみたいな綺麗な子が。
 ニコの後ろに並ぶ人たちの様子を窺う。口を真一文字に結んで、目線は合わない。雨の中待たされているわけだから、少しはいらついてもよさそうなのに、その様子もない。
「まずはこれを差し上げます」
 ニコは私に黒い紙袋を渡してくる。受け取ると、地面に落としそうになった。ずしりと重い。中を見ると、『特選 魚沼産 コシヒカリ 5㎏』と書いてある。
「どうして」
 ニコは首をかしげる。
「美咲さん、『お米を買いに行かなくちゃ』って、結構な大声で呟いていらっしゃいましたよ。ちょうど持っていたので、差し上げます。ご迷惑なら持って帰りますが…」
「嬉しいですけど、こんな高いもの…ニコちゃんにはいつもお世話になっているし、こんなことまでしてもらうわけには…」
 ニコは首を横に振った。
「いいえ、ぜひ、受け取ってください…それで、引き受けていただけるということでよろしいですか?」
 私は何度も頷いた。お米なんてなくても、ニコのお願いはすべて聞きたい。ニコに頼られていること自体が嬉しい。ニコが存在するだけで、私にとってはお願いを聞く理由になる。
「ありがとうございます。では、こちらを」
 ニコが合図をすると、後ろに並ぶ男性の中でもひときわ大柄な者が、キャリーケースを手渡してきた。
「こちらを一晩家においてほしいのです」

(つづく)