第六回 黒いキャリーケース

おくるひと

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前回のあらすじ

「あんたが何しとるか、知らないとでも思てんの」。ニコとの逢瀬を咎められただけでなく、過去のおぞましい出来事まで義母に責められた私は、逃げるように家を飛び出す。そして、奇跡的に再会したニコから、「仕事を手伝ってほしい」と頼まれ…。

 何も変わったところのない黒い布製のキャリーケースだ。ただ、すごく大きい。持ち上げてみようとすると、ニコにやんわり制止される。
「とても重いものですから、引きずらないと腰を悪くしますよ」
「これって、中身は」
 そう尋ねると、ニコは困ったように微笑んだ。
「大したものではないですよ。見てもいいのですが、あまり意味がないと言いますか」
 背筋にひやりとしたものを感じる。
 ニコの、年齢の割に堂々たる振る舞い。何人も引き連れて練り歩いている。しかも、全員真っ黒なスーツを着ている。
 運送業。たしかに、運送業に分類されるのだろう。
 ほぼ確信していた。この中身は、違法薬物だ。
 ワイドショーで見たことがある。最近では、いかにもな不良や、本職の暴力団ばかりが違法薬物の取引に関わっているわけではない、と。一見無害そうな大学生や、幼稚園の先生、そして、専業主婦などにも薬物は蔓延まんえんしていて、中には末端の構成員のような仕事をしている人間もいるそうだ。
 鼓動が速くなる。
 まさか、こんな身近にこんなことがあるだなんて。
 もしかして、最初からこういうつもりで近付いて来たのかもしれない。
 ニコの顔をもう一度見つめる。
 完璧なまでに美しい形の目。中に宇宙があるみたいだ。鼻も高いし唇の形もいいけれど、主張は強くなくて、瞳の美しさを引き立てている。
「分かった。預かります」
 私は頷いた。これ以上ないくらい落ち着いている。
 最初から利用する目的で近付いた。これは私にとって、最も納得のいく答えだったからだ。
 残念な気持ちがないと言ったら嘘になる。ドブみたいな家庭を捨てて、ニコとどこか遠くへ逃げる妄想をしたことも一度ではない。
 でも、そんなことあり得ないと私だって分かっている。私では、ニコのような魅力的な人とは釣り合いが取れない。もう、浮ついた気持ちは持たない。
 私はニコから安らぎを貰った。私の家にいる、家族というものが与えてくれなかったものをニコは与えてくれた。それに報いるだけだ。
「ありがとうございます!」
 街灯よりもまぶしい笑顔でニコは言う。
「それでは、また」
 ニコはくるりと方向を変えて去って行く。その後を等間隔に並んだスーツの集団が続いた。
 ニコの後ろ姿を見ると胸が苦しくなる。喫茶店を出たときのニコを思い出す。やはり、最初から、仕事を手伝わせる名目で、何のとりえもない、疲れたおばさんに声をかけたのだ。それをしみじみ実感してしまう。
 しかし私はもう決めたのだ。ニコの役に立つ。それ以外のことは考えるべきではない。
 私はキャリーケースに米の袋を載せて引っ張る。キャスターの動きは滑らかで、重さは感じなかった。
 マンションのエレベーターに乗ってから、はたと気付く。そういえば、家には公子がいるのだ。私は逃げてきてしまったから、公子はまだ怒っているだろう。怒りが倍増している可能性だってある。ニコのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れてしまっていた。そう思うと少しおかしくなって、ほんの少し気分がましになる。公子のことなど、私の中ではゴミみたいに小さなことなのだ。確実に何か言ってくるだろうが、無視してしまおう。
「帰りました」
 小声でそう言っても返事はない。てっきり、どすどすと足を鳴らして文句を言いに来るかと思ったのに。
 うがい・手洗いを済ませてからリビングに入っても、公子の姿はない。
「帰りましたー」
 もう少し声を大きくする。返事はなかった。それどころか、気配もない。
 よく考えたら、この時間なのに夫が帰っていないのもおかしい。
 私は少し考えて、一つの結論に至る。
 おそらく、二人で今後の相談をしているのだろう。仕方がない。もう私と公子は関係修復ができるような段階にない。それに、夫とも。
 少なくとも今日帰ってくるようなことはないだろう。それは逆に好都合だ。うるさいことを言われないで済む。
 誰も見ていないのをいいことに、私はキャリーケースを玄関からずるずると引きずり上げて、自室に運んだ。後で床を拭いたらいいだけのことだ。
 キャリーケースを横倒しにすると、予想以上に大きい音が鳴る。階下の住人に文句を言われないか心配だ。重いものですよ、とニコが言っていただけのことはある。
 テレビでしか見たことのない、パケ詰めされた白い粉を思い浮かべる。この中身が私の想像する通りのものなら、これは、何百億円とか、そういう単位のものではないのだろうか。数グラムでも一万円以上するのだ。一介の主婦に、そんなものを預けるだろうか。
 だとすると、もっと物理的に危険なものかもしれない。例えば、銃とか。
 見てみたい、という欲求がわいてくる。
 ニコは見ても意味はないと言ったけれど、見てはいけないとは言わなかった。
 それに、もう預かった時点で私は関与してしまっている。見ても見なくても同じだ。だったら、見てもいいはずだ。
 指紋が付くかもしれないので、ビニール手袋をつける。
 そして、慎重にジッパーを下した。