わたしをお食べ【1】

プディングと小公女たち

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前回のあらすじ

つぐみがホテルの常連客・メアリさんのペットだったミニブタを散歩させている時、中学生の少女・理菜に出会う。彼女が持っていた『トムは真夜中の庭で』にはまたもやメアリさん直筆のお菓子のレシピが挟まっていた。

イラスト miii
イラスト miii

    3 わたしをお食べ

 わたしが、どんどん小さくなっていく。小さく、小さく、目に見えないくらいに。見えなくなっても、誰も気にしない。いつものように、ご飯がテーブルに載っていて、洗濯物にアイロンがかかっていて、部屋がゴミだらけでなければ、いっそ見えないほうがじゃまにならない。温かいご飯も、さっぱりしたシャツも、片付いた部屋も、魔法で簡単に出てくるかのように思っているのだろう。
 使いっぱなしのハサミが、あるべき場所にきちんと戻っているのも、脱ぎ捨てたままの靴下が、真っ白になってタンスに収まっているのも、テーブルに置いたままのマグカップに、ミルクの残りがこびりつくことがないのも、不思議な魔法だと思っていたのだから、急に魔法が消えてしまっても、必死になって呪文を唱えるしかない。効かなくなった呪文を、何度でも。
 小さくなりすぎて、とうとう消えてしまったわたしには、もうどんな呪文も届かない。

 小崎こさき詠子えいこは携帯電話の電源を切った。家出をして三日、家族からのメールはたくさん入っていたが、どれもこれも、服や調味料や、洗剤やティッシュの仕舞い場所、ゴミの日や分別のしかたを問うものだった。家出をした理由を問うこともなく、不便だから早く帰ってきて、だなんて、帰る気も失せる。
 もちろん返事をする気にもなれないまま、詠子は放置している。
 食欲はあまりなかったけれど、目の前のパスタを残すのは忍びなく、フォークを動かす。西日が、詠子のいるファミレスの窓の外に、街路樹の長い影をつくっている。もうすぐ日が暮れる。このあとの長い夜を、どうやって過ごそうか。これまで、時間が余るなんてことはなかった詠子にとって、欲しかった自由な時間のはずなのに、慣れなくて持て余している。そもそも、自由な時間を得て何をしたいと思っていたのだろう。ただ漠然と、今までの自分から逃げ出したくなっただけだ。
 食べ終えて、詠子は店を出る。すぐ前の道を渡ったところに、プリン色のビルが建っている。“ホテルのはな”、詠子が宿泊しているビジネスホテルだ。家からはバスで二十分ほどの距離だから、日頃の行動範囲から出ていない。結婚してこの町へ来て、それからずっとここで暮らしている詠子は、市内で一番大きな駅前までバスで来たものの、電車に乗ってまで遠くへ行く勇気は出ず、駅前のホテルに飛び込んだのだった。
 入り口の自動ドアをくぐると、カウンターにいる六十代くらいの女性が微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
 すっきりしたブレザーを着て、小さなホテルだけれどきちんとした印象だ。数日宿泊してわかったのは、彼女は社長の奥さんで、副社長が息子さん、そしてその若奥さんと、一家で切り盛りしているらしいということだ。ビジネスホテルだが、朝食時には奥さんがエプロン姿で給仕し、お客さんと談笑したりと、アットホームなあたたかい雰囲気もあるホテルだった。
 十年以上前にも一度泊まったことがあるが、そのときお世話になった年配の女性はもう退職したのか見かけない。年齢的には、カウンターの女性の母親か、しゅうとめにあたるくらいだろう。
 部屋番号を告げるまでもなく、鍵を渡される。礼を言って、ちらりとカウンターの隅に目をやる。今朝、出かけるときにはそこに籠が置いてあって、「ご自由にお取りください」と書かれたカードとともにクッキーが入っていたが、もうなくなってしまったようだ。気づいたときにもらっておけばよかった、と少し残念に思ったが、今さらしかたがない。
 詠子は二階の部屋へ向かう。もうしばらく、ここに宿泊することになるだろう。いつまでになるのか、自分でもよくわからない。詠子みたいな、四十代も後半の女性が、ひとりで何泊もするなんて不審に思っているだろうかと気になるが、朝食のレストランでは、ひとりで食事をしている同年配の女性客も何人かいた。ただ、みんなきちんとした服装で、仕事の出張で泊まっているという雰囲気だった。詠子の年齢で、スーツを着て仕事をしている女性は、それなりの地位にあるのだろう。部下らしい男性と打ち合わせしている姿もあった。
 自分がそんなふうになれたとは思えないけれど、もしかしたら、別の人生もあったのかもしれないと想像する。昔から、いやなことがあると、別の人生を空想して気を紛らせていた。だから、本当はよくわかっている。空想は現実に何の影響も及ぼさない。現実を変えようとしない限り、結局何も変わらないのだ。