遠い日のプディング【1】

プディングと小公女たち

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前回のあらすじ

実家の子供部屋、団地の一角、図書館の棚…。不思議な旅人・メアリさんの残した児童書とお菓子のレシピの謎に興味津々なつぐみ。「ドリトルさん」と呼ばれる獣医の蒼の元にも届けられたと知り、詳細を尋ねるのだが。

イラスト/miii
イラスト/miii

    4 遠い日のプディング

 波打ち際は、まるで生と死の境界だ。どこまでが陸で、どこからが海かはっきりしない。海は、遠ざかったかと思うと不意に近づいてきて、浅瀬にほんの少し足を踏み入れただけでも、足元の砂を勢いよくさらっていく。うっかりしていたら足元をすくわれ、引きずり込まれるほどの力を感じる。
 自分がどちら側に立っているのかわからなくなりそうで、そうはあの、あやふやな境界には近づけない。寄せては返す波が、何かを海に引き込もうとしているようで恐ろしい。
 幼いころ、急な深みにはまり、溺れかけたことがある。蒼はときどき、自分がまだあの深みにいるのではないかと想像する。だとしたら海は、浜辺にいる蒼に、本当の居場所はこちら側だと、こちらへおいでと語りかけているかのようだ。
 彼を引き上げてくれた手は、現実のものだったのだろうか。
 
 メアリさんが亡くなったことを、皆川みながわ蒼はまだ少し、信じられないでいる。蒼の日常から、メアリさんがいなくなったのはたしかだ。しかし、本当に死んでしまったのか、ふらりとどこかへ行ってしまっただけなのか、確かめるすべがない。蒼が知ったときには、すでに荼毘だびに付されたあとだったし、葬儀もなかった。それに、メアリさんには「死」なんて言葉は似合わない。雲のように消えてしまったというほうが納得できる。
 いつでも彼女は、人の噂の中に存在していた。メアリさんを見かけた、という誰かの言葉を耳にすることで、彼女の存在がどんどん気になっていったころと同じように、今も蒼は、噂に聞き耳を立てる。彼女について蒼が知っていることは、すべてどこからともなく聞こえてきたことだ。メアリさんと呼ばれていること、いつもピンクの服を着て、ピンクのリボンのついた麦わら帽子をかぶっていること、家がないこと。
 ある人は、貧しい世捨て人だと言い、ある人は富豪の未亡人で心を病んでいるのだと言い、ある人は孤高の芸術家だと言う。どんな噂も、彼女は肯定も否定もしない。赤の他人が勝手に想像をめぐらせることを、むしろ歓迎していたように蒼は思う。
 亡くなったと知らない人はまだまだいて、この前どこどこで見かけたと、噂話が聞こえてくる。単なる見間違いでも記憶違いでも、蒼はなんだかほっとする。
 誰も噂をしなくなったとき、彼女は本当の意味で消えるのだろう。けれどまだ蒼にとって、姿が見えないままにもメアリさんはどこかに存在していて、ときおり彼は、ムシャムシャといっしょに窓の外の足音に耳を傾けるのだ。
 ドリトルさん、ご機嫌いかが?
 玄関に近づいてくる足音があれば、今にもそんな、聞き慣れた声が飛び込んできそうだと思うのは、ムシャムシャも同じなのだろう。急に立ちあがり、窓辺へ駆け寄っていく。耳が大きく動いている。
「蒼さん、おはようございます」
 声は、メアリさんではなく野花のはなつぐみだった。
 メアリさんがいなくなって、つぐみが現れた。古びたキャリーバッグを引きずっていた彼女を、ムシャムシャがメアリさんに重ねたように、蒼もつぐみが、メアリさんの気配を運んでくるような気がしている。
 そして彼女は、メアリさんを知ろうとしている。メアリさんが“ホテルのはな”で暮らしていたから、というだけではない、彼女が遺したものは、つぐみにとって強く心を惹かれるものであるようだ。
 玄関の引き戸を開けると、頭に浮かんだとおりの、つぐみの人なつっこい笑顔があった。
「おはよう。…ていうか、つぐみさん、どうしたの? 今日はおれ仕事がないから、ムシャムシャの世話は大丈夫だって言ってなかったっけ?」
 蒼は土日に、畜舎や動物病院の手伝いに呼ばれることが多いため、週末は休日のつぐみが、ムシャムシャをあずかってくれるようになった。しかし彼女だって、休みの日は予定を入れたいこともあるだろう。たまにでいいと言ってあるのだが、意外と楽しみにしているのか、嬉々として通ってきてくれる。
「はい。今日は、蒼さんに食べてもらおうと思って、トリークルタルトを持ってきました」
 声を弾ませ、彼女は紙袋を差し出した。
「おれに? ありがとう。何のタルトだって?」
「トリークル、糖蜜です。といっても、糖蜜ってなかなか売ってないので、ゴールデンシロップを使ったんですけど。あ、これ、ドリトル先生の好物なんですよ。知ってます? それで、ぜひ蒼さんにもと思って」
 ドリトル先生、というところに力がこもる。彼女は好きなものに正直だ。
「へえ、子供のころに読んだ気がするけど、もうおぼえてないな」
 蒼はたぶん、あまり正直ではない。