遠い日のプディング【2】

プディングと小公女たち

更新

前回のあらすじ

メアリさんが飼っていたミニブタ、ムシャムシャを引き取った蒼は、まだ彼女の死が信じられない。「ドリトルさん、ご機嫌いかが?」―いまにも声が聞こえてきそうだが、蒼はかつて、メアリさんからのプレゼントを断ったことがあった。

イラスト/miii
イラスト/miii

 そうがこの街へ戻ってきたのは、メアリさんに会う少し前のことだ。小学校のとき、父の仕事の関係で遠方へ引っ越し、それからはずっと、大学卒業後も都会で過ごしてきた。
 子供のころに野花のはな景太けいたと同じクラスになり、“ホテルのはな”に遊びに行ったこともあるが、当時はメアリさんの存在を知らなかった。
 だから、メアリさんの噂が耳に入るようになったのも、祖父の動物病院があるこの家へ引っ越してきてからで、祖父が患畜の飼い主と話している声を聞きながら、メアリさんという名前を何度か耳にしたのだった。
 あのころ蒼は、動物病院兼自宅の片隅でひっそりと暮らし、夜になると道路工事や警備のバイトに出かけていた。急にやってきた蒼を、祖父は深く問うことなく置いてくれた。孫が同居していることを、近所でもほとんどの人は知らなかっただろう。
 噂に聞くメアリさんは、いつもピンクの服を着て、大きなリボンで結ぶ麦わら帽をかぶっているということだったから、奇抜な人なのだろうと思っていた。年齢に似合わない明るいピンク色を、全身にまとった老婦人ということで、目立っていたようだ。公園のベンチで寝起きしているとか、空き家に勝手に入り込んでいたとか、家がない人だというのも耳に入ってきていた。
 一方で、メアリさんがときどき訪れるという店もあり、いつも同じような服装だが、けっしてぼろ着ではなく清潔感もあると、ホームレス説を打ち消す話もあった。それでも共通しているのは、メアリさんの本当の名前や、どこから来てどうしてこの街にいるのかを、誰も知らないということだった。
 ほとんど夜中にしか活動していなかった蒼が、昼間に部屋から出るのは、コンビニへ行くときくらいだったが、ある日、その短い行き帰りに、はじめてメアリさんを見かけた。すれ違うと、ハーブのような香りがした。そのとき蒼の頭に浮かんだのは、故郷も家族も持たない人は、何をよりどころにしているのだろうという疑問だ。野良猫みたいに、食べ物と安全な寝床を得るためだけに日々を過ごしているとしたら、そんな生活が可能なのだろうか。たぶん人の心は、それだけでは満たされないようにできている。
 不本意ながら孤独なのか、自分から家族を捨ててきたのかわからない。ただ蒼は、昔、香水の匂いを漂わせていた人がいたことを思い出した。あの人も今ごろ、故郷や家族を忘れ、別人になったつもりで暮らしているのだろうか。蒼が十歳のとき、家を出ていった母は。
 母は蒼のことを嫌っていた。どうして嫌われているのかわからず、好かれようと努力もしたし、たまに機嫌がいいとやさしいこともあったけれど、大抵は、蒼のやることなすことが気に入らなかった。
 物心つくかどうかというくらい幼いころ、蒼は家族で海水浴に出かけたことがあった。父と母と三人で出かけた記憶は、そのときの海しかない。
 足の届く浅い場所で遊んでいたつもりだったが、突然の深みにはまり、頭まで沈んだ。もがきながら、そばにいるはずの母をさがしたとき、水面越しに、こちらを見ている母と目が合ったのをおぼえている。母は、怖い顔をしていた。眉をつり上げ、微動だにせずに、沈んでいく蒼をじっと見ているだけだった。
 たぶん、沈んだのはほんの短い時間だったのだ。近くにいた人に引き上げられた蒼は、大泣きしただけで、大した騒ぎにもならなかった。
 母の恐ろしい表情は、ゆれる水面のせいだったのかもしれない。光が反射して、水の中にいる蒼のことが見えなかっただけ。そんなふうに思おうとしても、ふと思い出してしまうと、叫び出したくなった。
 それ以来蒼は、海が苦手だ。プールでなら泳げるが、海へ入ることはなくなった。
 母が出ていったときは、自分のせいだと思った。母が望むような子供になれなかったから、とうとう見捨てられたのだと感じていた。
 もっと大きくなってから、断片的に父や祖父母に聞いた話によると、母は心を病んでいたという。結局両親は離婚し、母は二度と、蒼や父の前に現れなかった。母方の親戚も、母の居場所を知らないという。どこまで本当なのかわからないが、彼女がどこかで元気でいるなら、過去のことは、蒼の存在も含め、忘れることで心の平安を得ているのだろう。
 蒼がメアリさんとはじめて言葉を交わしたのは、海のそばだった。祖父の家から徒歩十五分ほどのところにある弓良浜は、夏は海水浴客で賑わう。蒼が溺れそうになったのもここだから、近づかなくなって久しい。けれど、また祖父の家で暮らすようになって、通りかかることも増え、浜辺で海を眺める余裕も出てきた。海水浴をしたいとは思わないが、見ているだけなら何の問題もない。
 その日蒼は、祖父が飼っていた老犬をリュックに入れて、浜へ行ったのだった。もう足腰も弱り、寝たきりになっていたシロという老犬は、数年前に祖父が浜辺で拾ったのだ。拾ったときもすでに老犬だったというから、それなりに長生きだった。
 シロが海を見たがっている、と祖父が言うので、蒼が連れてきた。雑種で、さほど小さくはないのだが、リュックは意外なほど軽くて、老いて筋肉が落ちた体にかろうじて魂がしがみついているのだと感じると、波の音が不穏に聞こえた。
 リュックを置いて砂浜に座ると、シロは上から少し首を出して、潮の匂いを嗅いでいた。
「その子は海が好きなの?」
 こちらを覗き込んでそう言ったのは、メアリさんだった。短く切ったまっすぐな前髪が、帽子からほんの少しはみ出している。メアリさんの顔をしっかりと見たのははじめてだったが、想像していたよりも頬がふっくらとしていて、やわらかく細められた目はやさしそうだった。