からす麦の花咲く【1】

プディングと小公女たち

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前回のあらすじ

実家がホテルを経営している野花つぐみは、常連客だったメアリさんが遺した児童書と、挟み込まれたお菓子のレシピを調べるうちに様々な出会いを経験していく。そしておぼろげながら児童書の役割が見えてくるのだった。

イラスト/miii
イラスト/miii

    6 からす麦の花咲く

 毛虫がついたの。と、眉をひそめて義母の直子なおこは言う。想像するだけで鳥肌が立つらしく、腕をさする。千枝ちえはそれほど毛虫を怖いとは思わないが、寄せ植えのプランターに毛虫がついたというのは、自分が手入れしていたものだけにショックだった。
「わー、すみませんっ、気づかなくて」
「わたしもちゃんと見てなくて、お客さんが教えてくれたのよ」
「不快になられたでしょうか」
「ううん、子供がさわるといけないからって、おっしゃってただけだから。親切なお客さんだったわ。景太けいたが片付けたから、もう大丈夫よ。せっかく千枝ちゃんが植えてくれたのに、花も葉も食い散らかされちゃって、捨てるしかなかったけど」
 野花のはな千枝は、“ホテルのはな”の従業員で、跡取り息子である野花景太の妻だ。結婚して一年、家族経営のこのホテルで働き始めて三年になる。
 ホテルの玄関前には、プランターがひとつ置いてあって、季節の花が目を楽しませていたのだが、メアリさんが手入れをしていたものだった。そもそもは、義理の祖母が植えていたという。亡くなって、メアリさんが引き継いでくれていたのだが、彼女も急逝した。直子はそのときに、プランターを片付けようとしたのだが、千枝が自分から、手入れをしたいと申し出たのだ。
 けれど、失敗してしまった。鉢植えは、生花みたいにすぐ枯れないから手もかからないと思い、水やりくらいしかしていなかったからだろうか。
「それじゃあ、急いで新しい花を植えますね!」
 自分に活を入れるつもりで、努めて明るく言う。
「しばらくはいいんじゃない? 千枝ちゃんは生け花も飾ってくれてるし、プランターの寄せ植えって、案外大変でしょうから」
 忙しい時期で、千枝がついプランターをおろそかにしていたことを、直子は気づいているのだ。彼女が立ち去ると、千枝は自己嫌悪にうなだれた。
 義母であり、仕事の上司でもある直子は、めったなことでは怒らない。千枝がバイトで働いていたときから変わらず、仕事の指導は的確だけれど、おだやかな人だ。ここにいると千枝は、働き手として頼られていると感じるし、重要な仕事もまかせてもらえるけれど、それだけについ、調子に乗ってしまうのかもしれない。できもしないことを引き受けて、この結果だ。
 うまくいっているときは自信満々になれるのに、小さな失敗で、急に小心になる。
 口ばかり達者で、努力もしないのに、要領がいいから世の中をうまく渡っている。千枝はそんなふうに、周囲に言われることが多かった。子供のころから、家族の中の落ちこぼれだったので、愛嬌でごまかしてきたところはあるかもしれない。かわいがられれば、失敗しても許してもらえる。でも、大人になればそうもいかない。本当はすごく小心者なのだ。
「ああ千枝ちゃん、誕生日の花束をひとつ、見繕みつくろってきてくれないかな」
 通りかかった義父の晴男はるおが言う。社長である彼も、おおらかで楽しい人だ。それでいて、理屈っぽい景太を納得させられるくらい、理路整然と考えていて、たぶん景太も頭が上がらない。
「花束、ですか?」
「お客さんが、奥さんに渡したいんだそうだ。部屋に用意しておくから、チェックインの時間までに頼むよ」
 予算や、お相手の年齢、好きな色などを書いたメモを手渡される。
「わあ、花を贈るなんて、ステキなご夫婦ですね」
「こっちに娘夫婦がいて、ときどき泊まってくれてるんだ。この前、千枝ちゃんの生け花をほめてたし、きっとセンスが合うよ」
 少しずつ仕事をおぼえ、千枝なりにがんばってきた。勉強は苦手で、兄や姉ほど優秀にはなれなかったけれど、誰とでも話すのは苦にならないから、ホテルの仕事はうまくやれていると思えたし、認めてもらえた。
 もう、落ちこぼれだなんて言わせない。自分はがんばっている。そう思えるようになった場所にいるのだから、落ち込んではいられないのだ。
「はい、それじゃあすぐに買ってきます」
 元気よく言って、千枝は駆け出した。