からす麦の花咲く【2】
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前回のあらすじ
小さなホテルを経営する家に嫁いだ野花千枝は、祖父母の園芸店で『秘密の花園』に挟まれたレシピを発見する。一方、メアリさんの残した本とレシピの謎を追うつぐみは勤める会社の正社員登用について悩んでおり――。

*
一枚の名刺を、つぐみはじっと見つめる。大学の先輩の名前が書かれた名刺だ。つぐみが勤めるましま堂本社の近くに来たからと、急な連絡があり、昼休みに久しぶりに会った。独立して、東京で仲間と会社を始めたという彼女の用件は、いっしょに働かないかとつぐみを誘うものだった。
実務翻訳の会社で、主に金融関係の仕事を請け負っているという。先輩はしっかりした人で、これまで金融機関で十年以上働き、知識を身につけている。会社も軌道に乗っているようで、人材をさがしているということだ。かつて翻訳という仕事にあこがれたつぐみにとって、ありがたい話だったけれど、すぐには返事ができなかった。
二十代だったら即決していただろうと思うのに、どうしてなのだろう。今さら翻訳の仕事ができるのかという不安はもちろんある。金融の勉強も、一から始めることになる。でも、迷うのはそれだけではないような気もする。
「野花さん、ちょっといいですか?」
呼ばれて、あわてて名刺をしまう。声をかけてきたのは、お客様相談室の担当者だ。
「あ、はい。何でしょう?」
「オーツケーキって、そんな商品うちにありましたっけ?」
担当者が言うには、オーツケーキはもう売っていないのか、という問い合わせがあったらしい。その人は、また販売してほしいと要望しているという。
「それ、いつ頃お求めになったんでしょうか?」
「七、八年くらい前だそうで」
となると、つぐみはまだここで働いていなかった。過去の商品リストを検索しようと、パソコンを操作しかけたとき、
「ああ、もしかしたらワールド祭じゃない?」
通りかかった黒川主任が素早く答えた。つぐみの肩をがしりとつかみ、顔を近づけて商品リストを表示したパソコンの画面を覗き込む。検索結果には出てこない。
「ワールド祭だけの販売だと、商品はこのリストでは出ないんだよね」
主任のボディタッチも距離の近さも、みんな慣れきっているが、これが男性上司なら、少し問題になっていたかもしれないというなれなれしさだ。しかし今のところ、部内で問題にはなっていない。いちおう主任は、男性部下にはむやみにさわらないよう気をつけているというが、シャツの胸元は堂々と開いている。
「ワールド祭ですか。三回くらいやったけど、評判がいまいちでしたよね」
近くにいた同僚が言った。たしか、世界のパン食を体験しようという、なんだかたいそうだが、店舗の中にスペースを借りてましま堂のパンを目立たせるのが主目的の企画だった。近県の大型スーパーと提携し、定番商品とともに、外国のパンを製品化したものを期間限定で並べたのだ。
「当時の担当者は、誰だっけ?」
もう異動になっている。
「僕も入ってましたけど、わからないな。野花さんもチームでしたよね?」
つぐみは、販売部に来てすぐの年に、一度だけチームに加わったことがあった。それ以来、ワールド祭は行われていない。
「あ、はい。その商品があったかどうかはおぼえてないんですけど、オーツケーキっていうと、イギリスのビスケットみたいなやつですよね」
「パンじゃないの?」
主任は首を傾げる。
「たぶん、輸入品がスーパーやデパートで買えると思いますけど。オーツ麦を使って、甘いお菓子にしたビスケットみたいなのか、何か載せて食べるクラッカーみたいなものだと」
「クラッカーもビスケットもつくってないはずだから、お客さんの思い違いかしら」
「オーツケーキっていう商品名じゃないのかもしれないですね」
「オーツって、食物繊維が豊富で体にいいんですよね。あれを使った、オーツ麦食パンなら、最近売り出しましたけど」
それではなさそうだ。
「一時期あったイギリスのパンだと、イングリッシュマフィンくらいしか」
結局、その場ではわからなかった。お客さんにはすでに、販売終了品の再販は基本的にはないが、うちの製品かどうかは調べると伝え、納得してもらったようだが、報告書はきちんと上げなければならない。つぐみが調べることになったところで、黒川主任に「ちょっといい?」と別室に呼ばれた。