第六話 ヨーロッパへ【1】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

乱歩が始めた新連載、「怪人二十面相」は大反響だった。明智小五郎と小林少年の活躍は、少年少女の心を鷲摑みにしたのだ。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

 

     一、

「これを何と読むか、わかりますか?」
 兄が連れてきた客人は、紙にさらさらと万年筆を走らせ、幸子ゆきこの前に差し出してきた。
 ―杉原千畝
「すぎはら…センポ、でしょうか。でもそれだと俳句を詠む人みたいですね。じゃなかったら、『ちうね』とか」
 すると彼は目を見開き、「すごい」と言った。
「初見で『ちうね』と読んでくださる方は珍しいのです」
「お姉さんはそういうの、得意だものね」
 横で妹の節子せつこがはやし立てる。幸子は褒められてくすぐったい感じがしたが、別になんでもないというように装って紅茶を口に運んだ。
 保険会社の社員である兄はこの夏から外務省に出入りしている。そこで知り合った杉原さんと気が合い、食事に誘ったのだった。食事には両親も同席したが、どうも二人とも社交的ではない。食後の紅茶は兄と幸子、妹の節子の三人でもてなすことになった。
「杉原さんはね、この七月まで満州国の外交部で働いていたんだよ」
 兄が自分のことのように誇らしげに言った。
「まあすごいわ」
 妹が口元に手を当てる。
「満州国が北満鉄道をロシアから買い取ったことを知っているだろう? その交渉にあたったのは杉原さんなんだよ」
「本当に? すごいわすごいわ」
 妹はこうしていつも兄の言うことに大げさに感心する。その実、何もわかっていないはずだ。幸子だってそんなにわかっているわけではない。 
 満州国―日本が後ろ盾となって建国された、五族協和を目的とする理想国家だと聞いている。満州の肥沃な大地から採れる大豆や穀物は日本を豊かにするらしいけれど、今のところ誰もその効果を実感できていない。
 満州について何か質問しようかと思ったけれど、幸子は何も思い浮かばなかった。女子は政治のことなど考えなくていいのです―そんなことを言う女学校の先生に反発して世界史や政治史の本を紐解いて、一通りのことは知っているつもりだったけれど、いざ本物の外交官を目の前にすると、萎縮してしまう。本の知識と実情は違うのだと思い知らされたような気になるのだった。
「まあ、満州のことはいいのです」
 杉原さんは目を伏せた。どこか後ろ暗いものを引きずっているように、幸子には見えた。
「次はソ連に行くんだったね」
 杉原さんの持つ陰に気づかず、兄は言う。
「いつになるかわかりませんが、行くことになると思います。鍛えてきたロシア語を生かさなければ意味がないですからね」
 語学に自信があるようだ。幸子はまた寂しくなる。女学校では英語を履修したものの、まったく話せるようになどならなかった。
「幸子さんは、趣味はないのですか?」
 黙っている幸子を気遣ってか、杉原さんは訊ねた。
「私は…」