第六話 ヨーロッパへ【2】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

更新

前回のあらすじ

帰国した千畝は、友人の二人の妹を紹介された。お転婆な妹と、文学好きの姉幸子。だが幸子には大嫌いな作家が一人だけいた…。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

 

     二、

 昭和十(一九三五)年、千畝ちうね菊池きくち幸子ゆきこと結婚した。
 帰国して以来、未婚だと外務省の先輩に言うと、鼻で笑われた。
「ヨーロッパの外交にパーティーは欠かせない。そんなときに妻がいないのでは見下されるぞ」
 千畝にだってそんなことはわかっていた。だが誰でもいいというわけにはいかない。
「どうして私と結婚したいと思ったのです?」
 求婚したとき、幸子はそう訊ねた。
「あなたなら、外国に連れていっても恥ずかしくないからです」
 この答えは真実であった。女は貞淑にすべきなどという旧時代の観念に縛られず、世界のあらゆることに彼女は興味を持って、千畝にたくさん質問をしてきた。小説家を志したことがあり流麗な文章を書くし、音楽や演劇などの知識は、千畝をはるかにしのいでいる。
 語学こそ自信のある千畝だが、芸術には明るくない。外交の席で彼女の快活さと芸術への興味はきっと他の国の外交官夫人に見劣りしないだろう。
 ハルビンで別れたクラウディアとその母に対するうしろめたさはまだ残っていた。だがいつまでもくよくよしていてはいけない。国際情勢は日々、目まぐるしく変わっている。日本が嵐の中の小舟のように翻弄されないため、外交の舞台に打って出なければ。
杉原すぎはら君、ペトロパブロフスクへの赴任が決まったよ」
 上司の斎藤さいとうにそう告げられたのは昭和十一年の春のことである。ペトロパブロフスクはカムチャツカ半島に位置するソ連領の都市であった。
樺太からふと周辺での漁業に関する協定の件だ。君にとっては簡単すぎる仕事だろうが、モスクワ行きの前哨戦と思えばいい」
 斎藤はそう言って口角を上げた。彼が千畝のことをよく思っていないのはわかっていた。彼だけではない。彼のように日本を出ずにずっと本省勤めをしている人間は、実際に世界で働いていた千畝のような職員にコンプレックスがあるらしかった。
 まあいい、と千畝は思う。