第六話 ヨーロッパへ【6】
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前回のあらすじ
幸子と義妹の節子、二人の子供を連れ、運命のリトアニアへ。直後、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発した。
六、
その朝、千畝はいつものように六時すぎに目を覚ました。幸子や節子、子どもたちと談笑しながら朝食を取り、八時には階下の執務室に降りていく。
日本の外務省からの電信を読み、簡単な書類仕事をこなす。それが平日の千畝の仕事だった。
玄関の扉の前に立ち、施錠を解き、扉を開いた。
「えっ――?」
目の前に展開されている光景に、千畝は息をのんだ。
玄関の前、数メートルの石畳を挟んで鉄柵の門がある。その鉄柵をつかむようにして、大勢の人がじっとこちらを見ているのだった。男もいる。女もいる。子どもも、老人も……少なく見積もっても百人はいるだろう。皆、身なりはしっかりしているが何日も洗っていないように薄汚れている。顔も手も、泥だらけだった。
千畝の顔を見るなり、彼らは口々に叫びはじめた。知らない言語――おそらくポーランド語だ。言葉の意味は取れないが、悲痛に何かを訴えかけているのはわかった。少年時代にどこかの寺の和尚に見せてもらった地獄絵図が、頭の中に浮かんできた。
「皆さん、どうしたのですか?」
ドイツ語で訊ねるが、誰も理解できないようだった。たしか事務員のボリスラフはポーランド語もしゃべれたはずだ。呼んでこようと身をひるがえしたそのとき――
「ヨッテラッシャイ! ミテラッシャイ!」
群衆の中から甲高い男の声が聞こえた。思わず振り返る。
「ココニソロエタルハ、ヒトツメ、ロクロクビ、バケチョウチン! ヨニモオソロシ、妖怪変化の大饗宴!」
日本語だ。だが、なんとすっ頓狂なことを言うのだ。群衆たちもその異常に戸惑いながら道を空ける。人々をおしのけ、柵のすぐ向こうにたどり着いたのは、シルクハットをかぶった三十代後半の男だった。
「浅草名物! バケモノ小屋! ヨッテラッシャイ、ミテラッシャイ!」
浅草……? その言葉とともに男の目を見て、千畝の体内に電撃が走った。
「あなたは!」
「日本領事、助けてクダサイ! 私たち、日本にニゲル!」
向こうは千畝のことに気づいていない。千畝は慌てて駆け寄った。
「バロンさん! バロンさんでしょう?」
「あー?」彼は驚いたように口を開けた。「なぜ、私のコト、知ってマス?」
「もう二十年ぐらい前になります。浅草で、平井太郎さんを探していた杉原です」
バロンはぱちぱち瞬きをしていたが、
「ああー!」
と天地を揺るがすような大声をあげた。
「ヒライタロー! あ、あ、わかった。センポ、あなた、センポ!」
「そうです。杉原センポです。バロンさん、これはいったい何の騒ぎです?」
「あー、に、日本、あー」
バロンは急な再会に驚いたのだろう。喉をつまらせ、げほげほと咳き込んだ。声を張っていたので気づかなかったが、だいぶ衰弱しているようだ。
「とにかく、事情は中で伺います。これだけの人を入れるわけにはいきませんので、代表でバロンさんだけ」
「わかった、アリガト!」
千畝が門の施錠を解く間、バロンは大声で群衆に事情を説明している。群衆は落ち着いた。暴動など起こしようのない礼儀正しい人たちなのだとわかった。
バロンを連れて中に戻ると、幸子に節子、子どもたち、ボリスラフが心配そうな顔をしていた。
「こちらは、私の旧い友人のバロンだ。誰か、水を一杯持ってきてくれ」
ボリスラフの持ってきたグラスの水を一気に飲み干すと、バロンは人心地が付いたように息を吐き、ぽつぽつと語りはじめた。
「私、ほんとの名前、ミロス・チェルキェヴィチ。ワルシャワ生まれ、ユダヤ人」
十六歳の時にパリに出て大道芸人をしているうちに日本に興味を持ち、貿易船で日本にわたり、偶然知遇を得たローシーというイタリア人興行主のもとで働いたあと、浅草オペラの道具係として雇われた。千畝と会ったあとも数年浅草で働いたが、年老いた父が病気だという報せを受けて故郷のワルシャワに戻り、父を看取った後に家業であった自転車屋を継いだということだった。
「ワルシャワ、平和でした。だけど去年の九月、ヒトラーの軍隊、入ってきた」
ワルシャワでもユダヤ人への迫害が始まり、このままでは命が危ないと思ったユダヤ人が集団となって東へ逃亡を始めたとバロンは言った。
「ヒトラー強い。デンマーク、ノルウェーやられた。オランダやられた。パリもやられた。ユダヤ人が助かる場所、もうヨーロッパにはありません。シベリア鉄道使って、日本へ行くしか」
「ま、待ってください」
興奮するバロンを、千畝は両手で制した。