猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

  • ネット書店で購入する

「予定通り安田さんは、本町のほうを頼む」
 君はあっち、君は向こうと、指示を出すが早いか太郎は駆けだした。すると、すぐ近くの家から赤ん坊を抱いた主婦が家から外へ飛び出してきた。家の屋根には穴が開き、もくもくと煙が上がっていた。
「焼夷弾が飛び込んできました。お願いです、火を消すのを手伝ってください」
「落ち着きなさい。他に人は?」
「息子と娘がいます」
「その二人も連れてすぐに逃げなさい!」
「でも、火災が広がらないようにすぐ消せと」
 たしかに、焼夷弾によって発火した場合、被害が広がらないようにすぐに消せと、国からの公式な通達が国民にいきわたっている。だがそんなのは無理だと、先月の空襲で太郎は痛感していた。焼夷弾は着弾したとたんに油をまき散らし、そこに発火させる。その油は壁や床にねばっこく引っ付き、水や砂では到底消せるものではないのだ。それでも通達どおり消火に固執した者が多いと見え、その忠実さが被害を増やしたのだと太郎は思っている。
「国の言いつけなど守らんでいい。すぐに防空壕に隠れるか、それか、東に走りなさい」
「東ですか」
「先月、焼き尽くされたところだ」
 今夜の空襲は残りの住宅街を焼き払うこと。だとすれば一度焼け野原になったところは狙われにくい。燃える家などに構わず、さっさと焼け野原に避難させる。これが、防空指導係の面々に太郎が通達していたことだった。
 太郎はその後も、自分の受け持ちの地域の戸を叩き、同様の指示を出して住民を避難させた。そのうち、火の手は大きくなっていき、ついに行く手を遮るぐらいの炎の壁ができていた。
「これまでか」
 太郎はその先へ走るのをあきらめ、焼け野原への道を急ぐ。
 木材の焼け焦げた臭いと死臭の入り混じる中、ちらほらとバラックが建てられていた。避難してきた人たちがひしめき合う中、
平井ひらいさん!」「ご無事でしたか!」
 防空指導係の面々が次々とやってくる。太郎は答えながら、赤くなった空の下を眺めている。焼夷弾を落とし切って満足したのか、爆撃機は揚々と引き上げていくところだった。読み通り、こちらに無駄な焼夷弾は落としていかないようだった。
 池袋の街が焼き尽くされる。その炎の中の一点を、太郎は凝視していた。
 白い壁に囲まれ、土蔵を擁する、ひときわ大きな家屋―自分の家だった。先月の空襲では奇跡的に焼け残ったが、今や周辺の家屋が火柱を上げている。今回は無理だろう。
 焼けていく。
 海外・国内の数百の探偵小説。雑誌。切り抜き。江戸の書物。怪しげな画集。
 それだけではない。数々の作家を招いて談笑をした部屋。隆太郎の幻灯機を持ち出してひきこもった赤い押し入れ。隆子りゅうこに怒鳴られながら意地でも布団から出なかった日々。
 すべてが、悪魔のような炎に舐めつくされ、消えていく。
「平井さん…」
 その心中を察してか、安田が気の毒そうな声をかけてくる。
「つらいのはわかります。しかし、今は生き延びねばなりません」
 彼の顔を見返しながら、俺は生きたいのか、と自問した。
 今まで「死にたい」と思ったことは数多くあった。病弱でいじめられた幼少の頃。仕事に就いてもすぐやめてしまった青年時代。原稿を書いても生活につながらなかったデビュー直後。仕事を多く抱えながら納得のいかない作品ばかりを乱発した日々。
 死にたい。死にたい。死にたい。
 そう唱えながら放浪の旅に出、あるいは押し入れに閉じこもった。
 だが今はどうだ。
 明日の命が保証されない戦火の中にあって、生きようとしている。
 苦手だった人付き合いを始め、五十だてらに町じゅうを走り、人の命すら救おうとしている。息子を兵隊にとられ、集め続けたコレクションを焼かれ、それでも生きたいというのか。
 自分の希望とは関係ないのだろうな、と太郎は直感した。そして気づけば、大声をあげて笑っていた。
「平井さん?」
 安田が肩をゆすぶる。おかしくなってしまったのだと思っているだろう。
 おかしくなるのは当然だ。きっと私は、生き残ってしまうのだから。
 この戦争は負ける。後に残るのは、何もなくなった街と絶望だけだ。そんな世界に生き残されるとは何たる地獄か。
 ごうごうと、熱波とともに人々の生活が無に帰していく音が頭の中を駆け巡った。
 この戦争は、いつ終わるのだろう―。

(つづく)
※次回の更新は、8月9日(金)の予定です。