第七話 それぞれの再起【4】
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前回のあらすじ
引き揚げてきた千畝は、穴の空いた靴を履き安物の雑貨を買い漁っていた。その姿には優秀な元外交官の面影は微塵もなかった。
四、
昭和二十三(一九四八)年、秋。
一人の男が池袋の平井太郎宅を訪ねてきた。
「光文社の金井と言います。以後、お見知りおきを」
まだ二十歳ばかりの青年が差し出した名刺。肩書には「『少年』編集部」とある。
「単刀直入にお願いします。江戸川乱歩先生、新しい少年探偵ものを、ぜひうちの雑誌で書いてください」
やはりか――太郎は視線を逸らせた。
光文社の編集者と聞いたときから予感はしていた。昨年の夏に乞われて出すことにした『怪人二十面相』の復刻版がかなり売れたのだった。続く『少年探偵団』『妖怪博士』も売れたが、戦前に出した少年探偵ものはそこで終わっていた。
新しい時代、少年少女は読み物に飢えている。だが、海外の童話シリーズなどではものたりない。怪しい怪人が暗躍し、それを明智小五郎と小林少年が追うという手に汗握る展開は、子どもたちを虜にした。
「ぜひ次を書いてください」「怪人二十面相はどうなったんですか!」
こんな声が続々と光文社に届いていると聞いていた。
「悪いが、もう少年ものは書けないと思うんだ」
太郎は額を掻きながら金井に答えた。
「戦前のシリーズと同じ感じで書いてくださればいいのです」
「それができんというのだよ。私はもう、五十四だよ」
ここのところ、創作に関してはとみに衰えたと思っている。各方面の評論の仕事だけは旺盛に行っているが、小説は戦時中に書いた軍国主義的傾向の強い作品を最後に四年間、書いていない。
「探偵作家クラブの仕事が忙しくてね」
探偵小説作家たちの交流の場として昨年発足させた探偵作家クラブは世間の耳目を集め、探偵作家を志す者を増やしている。
「ええ、存じておりますが、そこをなんとか。もちろん、すぐにとは申しません。乱歩先生がじっくりと構想を練れるような環境もご用意いたします」
静養がてら湯河原にでも行きませんか、と金井は提案した。元来、放浪癖がある身である。久々に湯河原に行くのも悪くないと思った。だが行けば、執筆を約束したのも同然である。
「うう、すまないが、今日のところは帰ってくれ」
金井を追い出すような形で帰し、居間へ戻るべく廊下を進む。すると廊下の角からひょっこり、隆子が顔を出した。
「あなた、書かないのですか、新作?」
「もういいだろう」
隆子は思いがけず、ふっ、と噴き出した。
「もう二十年くらい前ですかね、同じようなことを言ったわ。あのときは印税のほとんどをはたいて、あなた、私に下宿屋をやらせたわね」
「あの頃、母さんピリピリしてたなあ」
ひょっこりと別の間から隆太郎が顔を出す。最近結婚して別のところに住んでいるが、何かと理由をつけて池袋のこの家に顔を出すのだ。
「隆太郎、お前も独り立ちしたんだからいちいち首を突っ込むんじゃない」
「もう書かないんだね?」
隆太郎は目を細めた。
「土浦の航空隊で訓練してた頃、『俺はこのまま戦争で死んじゃうのかなあ、明智小五郎と二十面相の決着を見ないで死ぬのは嫌だな』と思っていたもんだよ。戦地に行く前に戦争が終わって復員できてうれしかったんだけどなあ」
本気なのか冗談なのか、わが息子は言った。
「うるさい、勝手なことばかりを言うな」
隆子と隆太郎に背を向け、中庭へ降りる。逃げるようにつっかけを履き、戦火から逃れた書庫代わりの土蔵に入った。
ずらりと並ぶ古今の探偵小説の背表紙。それらを眺め、嘆息する。
探偵作家クラブの仕事が忙しい、だと? そんなのは言い訳だ。
太郎は本当にもう、小説を書ける気がしないのである。
『本陣殺人事件』で勢いを得た横溝正史は『獄門島』を世に送り出し、むかしから探偵小説の資質ありと睨んでいた坂口安吾は『不連続殺人事件』を犯人当て懸賞というセンセーショナルな話題付きで発表した。最近出てきた新人の高木彬光の『刺青殺人事件』も話題である。探偵小説各誌はさらなる才能を掘り出そうと懸賞企画を打ち出し、戦前から書いている作家は新人に負けじと息巻いている。
自分が蒔いた種が芽吹いている。それは喜ばしいことであった。
だがそれが太郎を――江戸川乱歩を苦しめるのである。戦後第一作、生半可な作品など出せない。「乱歩は衰えた、次世代に譲ればよい」などと言われるのは耐えられない。
こんな状態で、少年ものなどもってのほかだ。「乱歩は少年ものに逃げた」「もう少年しか喜ばせられない作家だ」……。
それからわずか一週間後、珍客が訪れた。
「杉原さんって言ってるわ」
取り次いだ隆子がいった。
「センポか?」
「いいえ」
隆子は眉根を寄せた。
「センポさんの奥さんとお子さんって言ってる。でも変よ、日本人なの。杉原さんの奥さんって、ソ連から亡命したロシアの人じゃなかった?」
隆子の情報は二十年以上前で途切れていた。