第八話・最終回 人生よ、謎に満ち【1】
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前回のあらすじ
54歳になった乱歩は、「少年もの」を書く意欲を失いかけていた。そこに珍客が訪れる。小さなお客さんの言葉が乱歩を突き動かす。
一、
「お待たせしました。カツ丼が二つです」
三十手前ぐらいの女性従業員が、蓋つきの丼を置いていく。平井太郎はしばし、その蓋を眺めた。正面に座った杉原千畝もまた、同じだ。
「どうしたんです、二人してじっと蓋を観察しちゃって」
「私たちのもすぐに来るでしょう。どうぞ先に召し上がってください」
隆子と幸子――二人の妻が言った。
「ああ……もちろんそのつもりだが」太郎は顔を上げ、杉原の顔を見る。「こんなに大きい器だったか?」
「私も同じことを考えていました」
苦笑し、杉原は胸の前に両手で輪を作った。
「これぐらいの……両手に収まるような大きさで、こんなに立派な模様がついていた記憶はありません」
「そうだよなあ。店構えも記憶と違って立派だし、本当にここの店か?」
きょろきょろと店内を見回すと、「おやめなさい」と小声で隆子が言って小突いてくる。
「戦争もあったし、建て替えたのでしょう。表にちゃんと『元大隈家御用』と書いてありましたよ」
「たしかにな。ふぅーむ」
疑りながら千畝と同時に手を伸ばし、蓋を取る。白い湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。丼からはみださんばかりの卵とじ。出汁に染まったたまねぎに囲まれ、四切れにされたとんかつが我が物顔で横たわっている。
「やっぱり、大きい気がするがな」
割りばしでその一切れをつまみあげると、下の飯粒がへばりついてきた。
簡単にかみ切れるほど、柔らかい。味わいはじめたとたん、懐かしさがこみ上げてきた。鼻腔に広がる卵とカツオの風味。玉ねぎの甘み。出汁のしみた衣。肉の味……。
「これだ」
「これですね」
杉原の笑顔が嬉しくなって、二口目を食う。
医者には血圧に気を使えと言われているが、構うものか。四十年経ても変わらぬ味を前に、遠慮などしていられない。
目の前で、杉原も同じように嬉々としている。老けたのは当たり前だが、この男の中に秘められた可能性と闘志は、初めてこの店で会ったときと同じように見えた。
大したものだ。杉原千畝は今また、日本を出ようとしている――。
*
そもそも、杉原家と継続的な交流が始まったのは、十年前に戦後一作目の少年探偵もの『青銅の魔人』を刊行した際、一冊贈呈したのが始まりだった。当時、太郎は執筆と探偵作家クラブの運営に加え、雑誌の編集なども引き受けたために多忙を極め、杉原もまた家族のために職業を転々とする日々を続けていた。だから継続的と言っても、はじめのうちは、たまの手紙のやりとりなど細々とした連絡だけだった。
それが、昭和二十九(一九五四)年から、杉原が頻繁に電話をかけてくるようになったのだ。
「聞きましたよ、ラジオ」
ラジオ東京で始まったドラマ『怪人二十面相』のことだった。戦後十年を迎えようとして、ラジオは一般家庭に普及し、娯楽の中心となっていた。中でもラジオドラマは人気で、その題材に、少年探偵シリーズが選ばれたのである。音声と音楽で展開される明智・小林と二十面相の対決は、世の少年少女を虜にしたらしく、池袋の町会長が「うちの甥っ子も小林君のファンでねえ」と一升瓶を持ってくるほどだった。
「まさか明智小五郎が、ラジオで聞けるとは思いませんでした。ご活躍、嬉しく思っています」
「ああ、ありがとう」
その後も新刊が出たり、東映が少年探偵ものを映画化したりするたび、杉原は電話をかけてきて太郎の活躍をたたえた。嬉々とした千畝の激励に太郎は一応、礼を言う。
しかし、気分は晴れなかった。気恥ずかしさもあるが、悶々たる気持ちのほうが強かった。
少年探偵シリーズのブームの風は、作者たる江戸川乱歩がいちばんよく感じていた。「大阪じゃあ、そこらじゅうの子どもが『ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団~』って歌ってますよ」と、光文社の編集者が報告してくるし、毎月銀行口座に振り込まれる金額は莫大なものである。
それでも太郎が自分に満足できていないのは――横溝正史との約束が果たせていないからだった。
長編小説を書いていないわけではない。還暦祝賀会の直後から早速構想を練り、出版社と話をつけて執筆を始め、あっという間に三作品を世に出した。そのうちの一つ『十字路』など、講談社の「書下し長篇探偵小説全集」という企画の第一回配本のため、雑誌連載を経ずに一気に書いたほどである。
ところがその三作は、まったく世間からの反応が薄かった。江戸川乱歩=怪人二十面相の作家、という等式が世間の人々の頭の中に刷り込まれていくようだった。
太郎の状況をどう思っているのか、横溝正史は相変わらず旺盛に執筆をしている。昨年刊行された『悪魔の手毬唄』は、金田一耕助シリーズの最高作と横溝自身が言っているほどの出来であった。
いつの間にか、昭和三十五年になっていた。主要な仕事は他人の小説の解説と、探偵作家クラブの仕事、そして、一年に一冊の少年探偵シリーズである。
「ご無沙汰しております」
杉原が電話をかけてきたのは、先月、三月の半ばのことであった。