猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 健三は畳の上にどたりとひっくり返った。太郎はおかしくてたまらず、腹を抱えて笑う。
「よしてくれよ、太郎さん」
「悪い悪い。あまりにも健三が話にのめり込んでいるものだから、ついイタズラしてみたくなったんだ」
 泣きべそをかきそうな後輩の顔を見て、太郎は上機嫌である。
 この寄宿舎は、三畳の狭い部屋に同級の者が二人ずつ入舎するものと決まっている。太郎と同室の乙崎おとざきという同級生は、落ち着きのない性格だ。いつだって一つ所にじっとしていられず、学校が終わると体を鍛えると言って、やれ山崎川やまざきがわだ、やれ鶴舞つるま公園だと、ぼろぼろの運動靴で走っていってしまう。どちらかと言えば太郎は病気がちで出不精、妄想癖があって一つのことに囚われると周りのことなどまったく耳に入らない。乙崎とは性格が百八十度合わないが、長く部屋で一人でいられるのはむしろ好都合と言えた。
 乙崎の出ずっぱりのおかげで、入舎以来、太郎は邪魔されずに本に没頭したものである。ところが、ここひと月ほど、乙崎の留守中にこの部屋に足しげく通ってくるものが二人ほど増えた。そのうちの一人が、この匹田ひきた健三である。
 一級下の彼は、入学以来、運動ができることで少しばかり有名であった。陸上、水泳はもちろんのこと相撲も強く、一度寄宿舎の余興で行われた相撲大会では、上級生を簡単に軽々と投げ飛ばしたのである。決して巨体ではない。むしろやせ型のほうだが、腕や胸の筋肉が鍛え上げられているのは、触らずともわかる。何でも実家は米屋であり、子どものころから重い物を担いで鍛えたというのだった。
 体操の成績は常に上位で上級・下級に覚えのいい健三だったが、一つ困った癖があった。建造物への侵入グセである。
 寄宿舎のすぐ近くに、もう長いあいだ人が住んでいない家がある。ぐるりを高い板塀で囲まれていて、外からは二階しか見えないが、朽ち果てた瓦屋根に草が生い茂ってなんとも不気味だ。没落華族が一家心中しただの、目の赤い女が棲みついているだの、太郎の心をくすぐる噂もいくつかあった。学校ではその家の敷地に入ってはならぬという命令が出ていたが、もとより塀のせいでそんなことはできない。ところがある夕刻、健三は他の同級生の見守る中、この家に侵入した。とにかく運動神経だけはいい男である。十メートルほど離れた位置から板塀めがけて突進すると、ひょいと地を蹴って板塀の上の縁を両手でつかんだ。がじがじと猫のように両足で板塀の表面を引っ掻くようにして体を持ち上げ、敷地の中に飛び降りた。しばらくして家の壁伝いに屋根に上った健三は、家の中で見つけたらしき薄汚れた手ぬぐいを、ぱっぱと振った。
 あたかも二〇三高地を占領したかのような雄姿に同級生たちはやんやの喝采を送ったものの、近所のかみなり親父がこれを見てかんかんに沸騰した。翌日健三は生徒指導の数学教師に呼び出され、こっぴどく叱られた。
 ところがこれで萎縮してしまうような男ではない。その夜、寄宿舎を抜け出した健三は学校に侵入した。職員室からくだんの数学教師が翌日のために用意していた小試験を盗み出し、校庭にばらまいて帰ったのである。健三は呼び立てられ、二週間の停学を申し渡されてしまった。
 教師たちに目をつけられているこの運動万能の悪童がなぜ、太郎の部屋に入りびたるようになったか。それは、この夏、寄宿舎で開かれた百物語がきっかけだった。
「今夜、俺の部屋で百物語を開く。怪談奇談のたぐいを持っているものは誰でも、俺の部屋へ来い」
 中西なかにしという五年生がそう触れ回ったのだった。
 普段は内気な太郎だが、怪談奇談ときいたら眠ってなどいられない。こっそり布団を抜け出して中西の部屋に行くと、そこにはすでに十人ばかりの者がいた。中央に立てた蝋燭の心もとない炎を眺め、中西を口切りとして順繰りに話が披露されていったものの、二周、三周としていくうち怪談の尽きる者が現れた。太郎はといえば、尋常小学校に入学する前から貸本好きの祖母や母にさんざん怖い話を聞かされてきたし、最近は泉鏡花などを気に入って読んでいる身である。あれも、これも、と思いつくままに話していたら、通算三十話をすぎるころには、太郎一人しか話をしなくなっていた。皆は身を乗り出して太郎の口からつむぎだされる話にのめり込み、太郎がここぞとばかりにだん、と畳を叩けば、そろって飛び上がった。
 その夜以来、太郎は「百物語の平井」と噂されるようになった。中でも太郎に心酔した一人が一級下の健三であり、こうして暇を見つけては部屋にやってきて、知り合いからもらった菓子などを差し入れては「何か一つ聞かせてくださいよ」と言うようになったのだった。
「他にはないんですか、太郎さん」
 さっき畳の上にひっくり返ったばかりだというのに、健三はまた畳に両手をつけて、ぐぐっと身を乗り出してくる。
「それじゃあ涙香はこのくらいにして、次は円朝えんちょうなんてどうかな」
「円朝っていうのはたしか、噺家はなしかでしたよね」
「噺家だが、とても優れた恐怖作家でもあるんだよ。たとえばこんな話があってね…」
 と言ったところで、乱暴にドアが引き開けられた。
「ちくしょう!」
 怒鳴りながら部屋に乗り込んできたのは、身の丈六尺はあろうかという大男。荒々しく鼻息を吹き、床を踏み抜かんばかりの足音を立てて、「ちくしょう、ちくしょう」と怒鳴り続けている。
真吾しんご、どうしたというんだ。とにかくドアを閉めてくれ」
 太郎が言うと、彼はドアのところへ戻り、すりガラスが割れるような勢いでドアを閉め、こちらを向いた。
 芦屋あしや真吾。健三と同じく百物語の夜から、太郎のところに足しげく通うようになった男である。彼もまた三年生だが、健三と違って図体が大きい。よく通るガラガラ声に不遜な態度は、講談などに登場する荒法師を思わせた。
「おい、どうしたんだその顔は」
 健三の指摘で、太郎もようやく気づいた。真吾の右目の周りが真っ赤に腫れ上がっているのである。
野田のだの野郎だ、ああ痛え、許せん」
 腫れている部位を手で押さえつつ、真吾はどっかと二人の前に胡坐あぐらをかいた。野田は三年生の体操の授業を受け持つ、真吾よりもさらに体の大きい教師だ。家は名古屋市内で名の通った医学の名門一族だが、なぜかその中で一人中学教師の道を選んだらしい。生徒指導担当と言っているが、反抗的な態度をとる生徒には厳格と言うよりも凶暴だ。健三や真吾といった悪さばかりしている生徒には常日頃目を光らせているのだった。