SF作家の地球旅行記

SF作家の地球旅行記

  • ネット書店で購入する

 …ああ、それで今日は近くにいたのか。普段はもっと後ろの席の、人口密度が高いあたりに座っていたはずだが、今日は俺のすぐ後ろだったので、眼鏡でも忘れたのだろうと思っていた。
「今から昼飯行くけど、その途中で良ければ。無理ならLINEして」
 と俺はリュックを背負って教室を出ると、周藤は俺の背後をカルガモみたいについてきた。今しがた2限を終えた理工学部生たちでごったがえす長い道を、俺は文系食堂のほうへ歩いて行った。
「あの授業の講義ノートが、スキャンされてネットに出回ってるんだよ」
 と、周藤は俺の脇について話した。
「もしかしたら君じゃないかと思って。いつも前の席で真面目にノートをとってるから」
 と言って、彼はスマホの画面を見せてきた。手がゴツいな、というのが最初の印象で、ワンテンポ遅れて画面を見た。ブラウザに表示された画像には、横罫ルーズリーフに「真核細胞におけるユークロマチン・ヘテロクロマチン構造」というシャープペンの字が書かれている。中高にかけて速記性と可読性を追求した結果、やたら角張った刺々とげとげしい文字だ。
「あー。確かに俺のだ」
「このサイト知ってる? 君が自分でUPしたわけじゃないよね」
「知らない」
 そう言いながらブラウザのURL欄を見た。サイトの名前はうちの大学名のアナグラムだった。
「学内サークルが運営していて、単位認定情報とか講義ノートとかを載せて収益を得てるところなんだよ。教務課も問題視してる」
「収益? 有料なのか?」
「いや、広告収入だけど。やっぱ無断で公開されてるんだね」
「なんか先月くらいからノート貸してくれってやつが何人も来てて、いちいち貸すのも面倒だったから、スキャンして欲しいやつに回してくれ、って言ったけど」
 見たところスキャンしたわけではなく、スマホのカメラで撮ってそのまま載せているようだ。机の天板が写り込んでいて、調べれば撮影した学生を特定できそうではある。
「谷原くん、よかったらこのあと事務棟に来てくれないか? この点について教務課と相談したいんだ。こういう被害実態があれば、大学側も動きやすいだろうし」
 と言われて俺は時計を見た。12時2分を指している。早くしないと文系食堂が混雑してしまう。
「いや、別に被害じゃないだろ。スキャンして回せって言ったの俺だし」
「そういうのはよくないよ。谷原くんは真面目に講義に出て、ちゃんと真面目にノートを取ってるんだから、その利益は君が享受すべきものだ」
「なんだよ、利益って」
「他の学生よりも高得点をとって、GPAを高くする権利」
 学期の終わりが近づくにつれて、GPAという言葉をよく耳にするようになった。要するに大学の成績表だ。違う教員の異なる内容の講義成績を集計しているのでずいぶん客観性が怪しいが、それでも就職活動に影響したりはするらしい。
「君みたいに真面目に勉強している人が、報われる社会になってほしいんだよ、僕は」
 そんなに報われていないように見えるのだろうか、と俺は横目で周藤を見た。俺に思いつく勉強への報いとは、蔵書が充実し空調の整った大学図書館とかそういうものであり、それについては特段の不満はなかった。
「別に、勉強はしたいやつがすればいいだろ」
「そういうわけにはいかないよ。大学教育には少なくない税金が投入されているわけだから、学生は投資に見合う義務を果たすべきだ」
「そこにテニスコートがあるだろ」
 と俺は数メートルむこうの金網を指した。理工学部と文系エリアの間には体育系の施設がかたまっており、ゴムチップ舗装された立派なコートも二面敷かれている。
「あれも税金で作ってるけど、俺はあそこでテニスをやったことがない。俺は学生の義務を果たしていないか?」
「大学は勉強するところだよ」
 じゃ何で体育会に入ってんだよ、という返しを思いついたが、言うのも面倒なので黙った。別に論破をする意味はないし、そもそも俺はこの男の話にまったく興味が持てなかった。
 スキャンしたノートが公開状態で出回るのは予想外だったし、自分で見つけたら多少なりとも腹を立てたかもしれないが、こいつが俺の出すべき感情を勝手に使ってしまったため、俺の取り分はもう残っていなかったのだ。
 文系食堂に入る頃には、もう周藤の姿は消えていた。トマトスパゲティを頼んで、文系学生たちがお盆を持って座席を探し始めた頃には食べ終えた。下膳口さげぜんぐちにそれを下げ、それから文学部4号館へ向かった。

(つづく)