■2-9 驚くことさえできない自然さでそこにいる

幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする

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前回のあらすじ

「ああ、そうか、君が霊媒師のバイトをするのは、そういう考え方か」と高野さんは頷いた。「ようやく腑に落ちた。君は『幽霊がいる世界』という設定の謎解きゲームをやっているんだ」

イラスト/土岐蔦子
イラスト/土岐蔦子

■2-9 驚くことさえできない自然さでそこにいる

 期末試験が終わると夏休みが始まった。宿題もない休みが2か月続くというのはずいぶんと不思議だが、大学というところは教育機関である以上に研究機関なので、年がら年中講義ばかりやるわけにはいかないらしい。
 といって「大学に来るな」と言われたわけではないので、それまでと同様に通学定期を振りかざし、大学図書館に通う生活を続けた。そもそも90分ごとに違う講義を1週間周期で受けるシステムはどうも効率が悪いし、こういう機会でないと読めそうにない数学や物理の本を2か月で一気に消化しよう、と10冊ほど積んでいたのだった。
 2週間かけてようやく1冊の半分を読み終え、計画に無理があったことを理解した。それから図書館の本棚を見て呆然とした。人間がこれだけの知識を積み重ねたのに、ちゃんと咀嚼そしゃくして消化できるのがほんの一握りしかないと思うと、真夏だというのに寒気がした。
 お盆になると図書館も閉館になった。ちょうどその時にハルさんから呼び出しがあり、慰霊のバイトに向かった。
 その日の依頼内容はひときわ奇妙だった。87歳で死んだ老人で、死因は老衰だという。そういう霊も扱うのか、というのが率直な印象だった。これまでの仕事は洪水や不治の病、交通事故といったわかりやすい不幸にみまわれた人たちだったが、この男性はそれなりの実業家で、不動産開発によって相当な資産を作り上げたものの、自分がひたすら老いていく恐怖で、晩年は自暴自棄になって家族も疎遠になり、最後は孤独に死んだという。
 結局その日の慰霊は失敗に終わった。ハルさんは「難しい人ねえ」と軽く流し、俺は「そもそも老衰を止める」なんてことは現代科学では無理ですよということを説明した。
 それ自体はごくあっさりと終わり、例によって「喫茶モダン」でアイスを食べながら、
「そういえば今ってお盆休みですが」
 と俺はハルさんに尋ねた。
「この仕事は普通にやるんですね。皆さんそれぞれ、ご自分の家に帰るんじゃないんですか」
 皿に盛られたバニラアイスはごく普通のカップアイスと同じ味がしたが、暑いとそれだけで特殊な甘味が増してくるように感じた。
「ええ。私はここの育ちだから。お母様の代に引っ越してきたのよ。もうずっと前に亡くなったけど」
 とハルさんは返した。意味を少し考えたあとで、質問の意図がずれていることに気づいた。
「あ、いや、幽霊の方です。お盆って、死んだ先祖が家に帰るって言うじゃないですか」
…そういえば、そうねえ。私がふだん話してる人たちは、この時期だからってどこかに帰ったりしないわ。みんなずっと同じ場所にいるの」
 そう言うハルさんは本当に「そんなことは考えたこともなかった」という顔をしていた。日本の一般的な民間信仰と、自分のやっている慰霊行為が同じ次元に並べられるという発想がそもそも存在しないようだった。キュウリやナスに串を刺して先祖を待つという行為の不可解さは、ハルさんの慰霊に通じると思っていたのだが。
ゆたかくんもそうでしょ?」
「まあ、俺もここが地元ですね。学科の同期で実家が遠いやつらは、みんな帰ってるみたいですけど」
 アイスを食べ終えてお冷で口の中を洗い流した。いくらでも冷たいものを入れたくなる季節だった。
「逆に、親戚の人がこっちに来ます。ひいばあちゃんの家が、うちの本家みたいな感じなんで」

「豊。あんた最近暇でしょ?」
 と母さんに言われたのは、まさにその翌日のことだった。
「勉強してるんだけど」
 俺は机の上に置かれた『キッテル固体物理学入門』を持って母さんのほうに向けた。
「そう。いま向こうの家に佳彦よしひこおじさん来てるから、相手してやってちょうだい」
 はいはい、と言って本をリュックの中に入れ、クロックスを履いて富子とみこばあちゃんの家に向かった。おそらくばあちゃんに呼び出されているのは母さんで、面倒なので俺を生贄いけにえにするのだろう。
 勉強中の学生にそういう雑用を言いつけるのもひどい気がするが、母さんからすれば俺の本は自宅でもばあちゃん家でも読めるものである。母さんの仕事や家事はそれぞれの場所でしかできない。よってばあちゃんの呼び出しは俺が応じるべき、というのが母さんの理論だった。論理的不備が見当たらないので従った。
 佳彦おじさんは富子ばあちゃんの弟だ。つまり俺の大叔父にあたるが、母さんと7歳しか違わないため認識的には「親戚のおじさん」だった。年がら年中ナントカスタンとかナントカール共和国とかいった国々を歩き周り、写真をよく撮って来るがカメラマンというわけではなく、たまに雑誌に放浪記を載せるがそれが収入源という雰囲気でもなく、要するに何なのかよくわからない。親戚に1人はいる「そういう枠」の人だった。
 千代子ちよこひいばあちゃんの葬式にも来なかった。「空港がクーデターで封鎖されて帰れない」とのことだったが、四十九日法要にも音沙汰がなく、3か月も過ぎてノコノコ現れるあたり、ひいばあちゃんの「儀式嫌い」の血をいちばん濃く受け継いでいることがうかがえた。
「おお〜、豊か。久しぶりだなあ」
 ばあちゃんの家に着くなり、佳彦おじさんはキッチンに座ったまま、友達に話しかけるようにこちらに手を向けた。
 アフリカ(だったと思う)の紫外線を受けて真っ黒に日焼けし、対照的に頭はすっかり白くなり、ネルソン・マンデラに似た風貌になっていた。奥に座る富子ばあちゃんは相変わらず大福みたいな白肌だった。この2人が姉弟だと聞いたら、大抵の人間はそこに複雑な家庭事情を想像するはずだ。
裕子ゆうこちゃんは元気か?」
 おじさんはビールを飲みながらそう尋ねた。俺は富子ばあちゃんから麦茶を受け取り、一口で飲み干してから答えた。
「母さんは相変わらずですね。勉強中の学生に雑用、、を押し付けてくるような人です」
「そうかそうか、豊ももう受験か」
「いえ、もう終わりました。いま大学生です」
「ゆう君は良い子だから、大学でちゃんと勉強してるのよ。3か月で辞めたあんたと違ってね」
「そうかそうか、偉い偉い。よし、飲め」
 と言い、知らない言語の書かれたビール瓶を俺に向けた。
「俺、18ですよ」