■3-1 生きてきた中で一番くらいの混乱

幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする

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前回のあらすじ

「私は鵜沼ハルの家の者です。鵜沼サクラと申します」「それで、ハルさんは今、どちらに?」「母はいま、市立病院に搬送されています。先ほど意識が戻ったところですので、電話口に出られるまでには、もう少し回復が必要かと」

イラスト/土岐蔦子
イラスト/土岐蔦子

■3-1 生きてきた中で一番くらいの混乱

 19年住んでいる町なのに、市立病院に来たのは初めてのことだった。
 玄関をくぐるなり、うっすら甘い臭いがした。医薬品や器具の臭いがいくつか混合した結果なのだろうが、まったく食欲をそそられない甘さだった。鼻腔の嗅細胞を串でつつかれているような、不自然で不快な感覚だ。
 待合室のソファに座って、俺はハルさんの娘、鵜沼うぬまサクラなる人物を待ち続けた。といってもこちらは相手の顔を知らないので、足音が聞こえるたびにそちらに目をやって、俺はここにいますよ、という軽いアピールをして、相手の反応がなければ目を伏せた。それを10回くらい繰り返した。
 平日の昼間ということもあり、待合室を通る人はみな老人だ。背後から「そうなのよう、長男の嫁がねえ」と話しているのが聞こえる。診察を待っているのか、会計を待っているのか、それとも何も待っていないのか、とにかくずっと喋っている。ハルさんがひいばあちゃんの同級生であるとすれば、「娘」はこの同世代ということもありえた。電話口の声を聞くかぎりでは、もう少し若そうではあったが。
 考えてみると俺は、ハルさんの依頼で医薬品を用意したりはしたものの、病院という場所にはやたらと縁が薄い。母さんも、富子とみこばあちゃんもそうだ。100歳まで病気せずに逝ったひいばあちゃんの子孫だけはある。「健康保険を無駄に払ってるね」と父さんが笑っていたことがある。保険は誰かが無駄に払うことで成立するビジネスなので、仕方ないことではあるのだが。
 高2の担任教師がやたら熱心に医学部を勧める人だった。校内の医学部進学者数がその先生の人事評価に影響するという噂で、「君の成績で理工学部は勿体ない」と言ってきたのは今でも印象に残っている。あまりに面倒だったので、
「X線の仕組みを知らない患者にX線を浴びせるなんて怖いじゃないですか」
 と適当に言って断った。
 今になって思うと、自分の価値観の表現として的を射ていたようにも思う。病院という場所にうっすらと苦手意識があるのは、大勢の患者が複雑な装置につながれて、彼らがその仕組みや意義をほとんど理解していない、という状況の違和感が拭えないからだ。
 そんなことを考えていると、鵜沼サクラは現れた。玄関ドアが開くとともに、舞台女優みたいに堂々とした足取りで、すっとこちらに近づいてきて、
「遅くなってすみません。谷原たにはらゆたかさんですね?」
 そう声をかけられる2秒前から、この人がハルさんの娘だな、と水を飲み込むように理解した。それについては何の違和感もなかった。
 というのは、容貌があまりにも似ていたからだ。ハルさんの顔を適当な加工アプリで若返らせたらこうなる、という感じの顔立ちだ。ハルさんが和装に合わせてまとめていたのと同じくらいの長さの髪は、シンプルなポニーテールにして垂らしている。
「はい、谷原ですが」
 俺がそう答えた瞬間、視線は彼女の服装に向かっていた。違和感があったのはそちらの方だ。
…高校生?」
「そうです。部活が少し長引いてしまいまして」
 サクラはすっと頭を下げた。年中黒紋付きを着ているハルさんとは対照的に、彼女が着ていたのは白いセーラー服だった。
 知っている制服だ。隣の市にある進学校だ。白いセーラー服の下には紺色の長ズボンを穿いていた。俺がまだ高校生の頃に、スカートとパンツスタイルを選択可能にしたことで地元ニュースになっていた。そのせいでサクラは女子高生というよりも、配属されたばかりの海軍兵士のように見えた。靴は運動部員が通学に使いそうなスニーカーを履いている。

「重度の熱中症ですが、命に別状はないとのことです。来週には退院できると」
 病室に向かう階段を登りながらサクラはそう説明した。俺が一段登るたびにやたらペタペタと音を立てるのに、サクラのほうはなぜか音をほとんど立てずに登っていく。そういう歩き方をどこかで身につけたのかもしれない。
「熱中症か、それはそうだろうな」
 と俺はうなずいた。このところ夏が来るたびに熱中症の死亡事例がニュースで報じられる。去年は全国で1500人が死んだという。そして、その多くが高齢者だ。
「真夏でもあんな服着てて、大丈夫なのかと思ってたけど」
 相手が高校生だと認識するなり自然と敬語が抜けてしまう自分が、なんだかひどくみっともなく思えたが、変に繕おうとすると余計に不自然になるので仕方がない。
「そうですね。私もその格好はやめてほしいと、何度も母に言ったのですが」とサクラは続けた。「鵜沼ハルは、あの格好でなければ仕事ができないというものですから」
 確かにこの仕事は服装規定がやたらと多い。「霊が心を閉ざさないように」という理由でバイトの俺にもさまざまなルールが課されたが、考えてみればハルさん自身も、俺以上に細かい規定のもとに仕事をしていたはずだ。
「夏の気温が年々上がっているわけですし、いつまでも戦前の感覚のままでいられては困りますよね」
 そんな話をしながら、サクラは病室のドアを開けた。戦前の感覚、と俺は頭の中で繰り返した。
 ビジネスホテルのような狭い部屋に、手すりの多いベッドがひとつだけ置かれている。チューブでがんじがらめにされたハルさんがいるのではないかと想像したけれど、ひとりの女性が入院着を着て眠っているだけだった。根本的な治療はもう終えて、あとは体力の回復を待っているようだ。
 髪をおろしているせいで見慣れない様相ではあるが、確かに俺のよく知る鵜沼ハルさんだ。あいかわらず生気の薄い白い肌や、皺一つないシーツのせいで、その姿はどことなく遺体を連想させた。喉のあたりがかすかに上下しているので、それで生命を持った人間であるとわかる。
「今朝は起きていたので、そのうち目を覚ますと思いますが。お忙しい中すみません」
 サクラはそう言って、壁際に並んだパイプ椅子の、いちばん奥の席に腰掛けた。椅子は3つ並んでいたので、俺は反対側の端に座って、
「まあ、夏休み中の大学生というのはだいたい暇だから」
 と答えた。忙しさというのは相対的かつ感覚的な問題だ。母さんに雑用を言われたときの俺はだいたい忙しい。
「谷原さんは大学生なんですよね。どういった経緯で母と?」
「今年の春に、俺のひいばあちゃんが亡くなって、その弔問で出会ったんだ。ひいばあちゃんの女学校の同級生だった、って」
「ああ、そういったご縁だったのですね」
 とサクラは頷いた。彼女が見ているのは俺のほうではなく、かといってベッドで眠るハルさんでもなく、部屋の真ん中あたりの何もない空間だった。幽霊と対話している時のハルさんとそっくりの目だ。
「急に俗世の大学生をバイトに雇ったと聞いて、不思議に思ってはいたのですが。鵜沼ハルは助手を使うときは、たいてい一族の者を使いましたから」