■3-3 家族と死者には適切な距離というものがある

幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする

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前回のあらすじ

死んだのは30年前。俺が生まれるより前だ。それなのに、たったいま失われてしまったという感触が、胸の中にたしかにあった。俺は鵜沼ハルという女性を、よく知っているのだ。その人が、もうこの世にいないのだ。

イラスト/土岐蔦子
イラスト/土岐蔦子

■3-3 家族と死者には適切な距離というものがある

「母は予定どおりに退院しました」
 サクラはそう言ってからレジの店員のほうを見て、
「レモンヨーグルト発酵フラペチーノシトラス果肉追加トールサイズをお願いします」
 とよどみなく頼んだ。こちらが何も言っていないのに「大丈夫です、お小遣いはちゃんともらっていますので」と財布を出して支払った。確かに俺にあれだけのバイト料を出せるのであれば、娘の小遣いに不自由するはずはない。
 病院で会ってから3日が過ぎていた。9月にしては涼しい日で、台風を予感させる荒っぽい風が町をうずまいていた。サクラは白いブラウスの上にサスペンダーワンピースを着ていた。病院ではセーラー服の下にパンツを穿いていたので、てっきりスカートが嫌いなのかと思っていたが、そういうわけではないらしい。彼女なりのポリシーがあるのだろう。
「大事に至らなくてよかった。ハルさんの調子は?」
 死者の「調子」を聞くのも奇怪だが、それ以外にあの人をなんと呼べばいいのかわからなかった。少なくとも俺が様子を知りたいあの人は、サクラにとっては「ハル」と呼ぶべき誰かだ。
「ハルはあれから、母のもとには現れていません」
…そうか」
「今後の谷原たにはらさんのバイトについては、ハルが現れたら私が聞いておきますね」
 そうしてサクラはレモンヨーグルト発酵フラペチーノシトラス果肉追加トールサイズをひとくち飲んだ。上に載ったクリームの山が、地下水の汲み過ぎで沈下する地面みたいに凹んだ。
「そのへんの仕組みをよく知らないんだけど、ハルさんと会話する場合、ハルさんが現れている必要があるのか?」
…? どういうことですか」
「つまり」俺は自分の疑問を、サクラのほうの言語に翻訳してから言った。「あなたのお母さんとハルさんは、思考や記憶を共有していないのか? つまり、ハルさんが現れていない時に、お母さんにハルさんの考えを聞くことはできないのか」
「そうですね。霊媒中でも母は目覚めている、、、、、、ので、ハルが見聞きしたことは母も知っています。つまり、谷原さんのことも母は知っています」
 それはちょっと嫌だな、と俺は思った。鵜沼うぬまモモコが自分だけ「鵜沼ハル」という仮想人格に隠れて、一方的に俺を監視している、というのは気に入らなかった。
「ただ、ハルがいない時の出来事については、母がちゃんと説明するとは限らないので、ハルが現れているときに、私が話すほうが確実ですね」
…お母さんとハルさんは、よく喧嘩するの?」
「当たり前じゃないですか。たとえば、ハルはコーヒーを好みますが、母はカフェインが嫌いです。眠れなくなるので」
 いちいち新鮮な「当たり前」が出てくる。それによって鵜沼家の状況が少しずつ見えてくる。仕事上の必要性とはいえ、精神的に分裂状態にある母親がいる。そしてその精神的ケアを、高校生にすぎない娘が行っている。あまり健康的な家庭環境とはいえなかった。かといって、専門医に相談できるような状況でもない。まともな医者であれば鵜沼モモコを「祖母の霊を宿していると思い込んだ女性」と判断するだろう。それは彼女たちにとって望ましい状況ではない。
 サクラは母と2人暮らしなのだろうか。さっきから彼女の話には、父親らしき人間の気配はない。
 当然、ハルさん(故人)にも孫がいる以上は夫がいたはずだが、そういう話を彼女はまったくしない。母娘の顔が異常なほど似ているのも気になるが、さすがにトカゲみたいな単為生殖をするわけではないはずだ。鵜沼家の女性が人類学会に報告するべき存在でないということは、鵜沼ハルが驚異的に若く見える100歳ではない、という点から理解していた。
 つまりサクラの生物学的な「父親」は、サクラがいま抱えている負担を分散できるような立場ではない、と推測できる。
「ハルさんの霊が、このまま戻ってこなかったら、どう思う?」