Lobby Lounge――白夜は更けてゆく【5】
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前回のあらすじ
「トーイさんや瑛仁さんみたいに、バイトして、自分で稼いでみたいんです」。レオはどこか不安そうではあるけれど声には確かな意思がこもっていて、奈々子は彼の成長を噛み締めていた。

*――Room721
「じゃあ、今日からお世話になります。マジで助かります。本当にありがとうございます」
見た目とは裏腹の、律儀かつ丁寧な態度で、721号室の三和土に立ったパーカーにスウェット姿の白夜が、奈々子に向かって深々と頭を下げた。石打高原スキー場のバイトの打ち合わせがあるというトーイは、一足先に引き払っている。もちろんレオは無事に、シーズン中のレンタルコーナーの臨時アルバイトとして採用が決まった。
「こちらこそ。困ったときはお互いさまだし、一昨日も言ったけど今回の戦争なんてマジで不可抗力だしさ。それにあたし、オペラのアリアとか交響曲の一番盛り上がるところで低く鳴るときの、雷みたいなティンパニの音、大好きなの。それにザルツブルクとかウィーンはもちろん、ヨーロッパの色々な歌劇場もコンサートホールも行ったんだけどさ、ロシアだけはないのよ。マリインスキーもボリショイも、いつか絶対行きたい。マリインスキーでバレエの『ロメオとジュリエット』とか観られたら最高だな」
砕けた口調でありながら、持って生まれた知性と品格を多分に醸し出している奈々子に接して、白夜は圧倒されたような表情になる。戦争のせいで帰国してから二年以上にわたってホストクラブで働き、かなりの数の金払いのいい女性客と出会って来た。やり手の女社長や女医もいたし、彼女たちのおかげで、何度かナンバー1になることもできた。今回、荷物を持たずにオーストリアへ直行するチケットを買うことができるのも、彼女たちからもたらされた貯えのおかげだ。でも、目の前に立つ奈々子という女性は、いままで接してきた女性客とはどこか次元のちがうものを持っているような気がした。犯しがたい、聖女のような――。白夜の脳裏に、サンクトペテルブルクで暮らしていた頃、寂しくなると立ち寄っていた正教会の聖堂の天井に描かれたフレスコ画の中心の、気品と慈愛に溢れた金色の聖母像が浮かぶ。
「……俺も、歌舞伎町のお客さんとか同僚でクラシックの話とか音楽の話ができるひととか全然いなかったんで、すげえ嬉しいです。なるべく迷惑かけないようにするんで、よろしくお願いします。てゆーか、レオさんを追い出す感じになっちゃって本当に申し訳ないです」
改めて詫びる白夜に向かって、奈々子は「あ、そこは全然気にしないでいいよ」と笑顔で言った。
「レオ君とあたしって別にそういう関係じゃないし、説明は難しいけれど、レオ君はあたしにとってお互い何でも打ち明けられる年の離れたソウルメイトみたいなものなの。あ! 一緒に寝泊まりするから一応言っておくわ。あたしね、なんとかセクシュアル……えっと、アセクシュアルだっけ? まあとにかくそれみたいなやつで、男性にも女性にも一切性欲感じないの。恋愛感情みたいなのも、全然生じない。だから、躊躇いなく白夜君を招き入れられるわけ。レオ君はあたしのこの事情知っているけど、他のひとには言ってないから、そこんとこは一応まだ内密でよろしくね」
あまりにさらりと重大なことを伝えられ、白夜は息を呑む。と同時に、どんな顔をすればいいのかわからず、あからさまな戸惑いが顔に浮かんでしまいそうなのを、どうにか堪える。歌舞伎町時代のホストの客であれば、「へえ、そうなんだ。じゃあ、俺が治しちゃおっかな」とかテキトーなことを言っていればよかった。でも、奈々子に対してはとてもそんなふざけた言葉を吐くことはできない。いっぽう、好きだった女の子に振られたときに感じるような切なさが、胸に湧いて来ているのがわかる。
「もちろん、心のうちに留めておきます! むしろ、そんな大事な話を最初に打ち明けてくださってありがとうございます。そもそもこうして居候させていただけるだけでありがたいし、そんな失礼なこと考えたりしていないので……」
表情に出てしまわないように気をつけながら、白夜はどうにか取り繕った。奈々子は「そりゃそうだよね、よかった!」と、無邪気に笑った。


