9月半ばだというのに真夏が1日戻ってきたような日、入学式が執り行われた。高校卒業のとき、「就活でも使えるからね」と親が買ってくれたスーツは体にまだ馴染まず、着ているだけで肩がこわばった。
20年度入学の大学生は春の入学式が中止になったからと、人数制限はあるものの後期授業がはじまるこの時期に入学式が執り行われたのだ。講堂はすり鉢を半分に割ったような形状で、新入生は1席ずつ空けて着席していた。
学長以下えらいひとのえらいお言葉を聞きながら、夏生はずっと教職員席を注視していた。文学部文学科の教員は夏生の座る席の前方に固まって座っているようだったけれど、高遠先生の姿は見えなかった。
初回の授業が休講になって、高遠先生との連絡もとれなくなった。夏生は何度も電話をかけて、送信履歴の1スクロールが高遠先生の名前で埋まったころ、「この電話は現在使われておりません」になった。高遠先生は、大学にこなかった。次の週も、その次も。代わりに非常勤の講師が講義をした。夏生たちは、ただその非常勤講師に講義開始前に「高遠先生は休職されました」と説明されただけだった。
毎日大学に行って、対面で授業を受けて、昼休みには同級生とご飯を食べる。渋谷にタピオカだって飲みに行けるし、竹下通りでパンケーキ食べたっていい。ずっと夢に見ていた東京での大学生活がようやくはじまって、それなのに、夏生はずっと置いてけぼりにされたようで、半端にちぎれた時間をもてあましていた。生活のすべてが、大学生活とかサークル時間とかじゃなく、『高遠先生と話せない時間』に括られていて、うまく流れていってくれない。
式が終わると、新入生は蟻の大群のように講堂から這い出て、校門付近で停滞した。みんな校門で写真撮影するときだけマスクをはずしている。撮影せずに学舎入り口の階段下にたむろしているのは内部生だろう。夏生は写真を撮るのもはずかしく思って学舎に入ろうとし、内部生集団に近づけずに引き返してと、うろうろしていた。
校門から北に歩いていくと、喫煙所の近くに立っていた柚愛がこちらに手を振るのが見えた。近づいてみると、「校門前で写真撮ろう」と言う。柚愛は夏生みたいなリクルートスーツじゃない、細身で丈の短い、デザインスーツを着ていた。沙也加も加わって、校門前で写真を撮った。K大学入学式という看板はずっと使われているのだろう古めかしいものだった。
「夏生、入学式のときずっとキョロキョロしてなかった?」
沙也加が聞いてくる。夏生はどきっとしながら、「そう?」と首をかしげてみせた。
「だれ探してたの? 高校の友だちとか?」
「や、地元から東京でてきたのわたしだけ。ていうかわたし高校で友だちいなかった」
「あー」
沙也加と柚愛のあいだで交わされる目配せに、気づかないふりをする。大学一年生はまだ半分くらい高校生の名残をのこしている。久々に見たな、と思った。そういう『女子高生』の湿った仕草は、オンラインではあまり見えない。肉体が同じ空間にあるから生じるモノだった。
「高遠先生、探してたんだよね」
夏生の言葉に反応した沙也加が、「あ、さっき見つけたんだけど」と声をあげた。学部棟入り口の掲示板まで連れて行かれる。掲示板には学科の連絡事項が掲示されていた。休講連絡の欄を見ると、高遠先生の講義はすべて休講になっていた。「もう完全に休職らしいね」と沙也加が言う。理由は書かれていなかった。
学部棟から出てきたネームタグをつけた人に、沙也加が「あ、矢谷さーん。高遠せんせーどうしたんですかあ?」と話しかけた。小柄な30代くらいの女性。初日の授業で休講連絡をしにきた副手さんだった。彼女は沙也加のくだけた態度に慣れた様子で応じた。
「どうもこうもないわよ」
「病気ですか? ウツ? メンヘラな学生に刺されちゃったとか?」
「そんなんじゃありません。テキトーなこと言って」
「だってあたしたち高遠先生のファンなんですもん。夏生も知りたいって」
沙也加が夏生を指す。えっ、と叫んでしまってから、副手さんの視線に耐えきれず「……知りたい、です」と素直に言った。
「そう言われてもねえ、わたしも知らないのよ。夏休み入ったころかなあ、休職願が届いて、学部長といろいろ話し合ってたあたりは見てたけどねえ。突然、音信不通になって。みーんな頭抱えてるもん」
副手さんはしゃべり好きのおばちゃんらしく事情をあけすけに話してから、ふと上を向いてつぶやいた。
「失踪でもしたのかなあ」
失踪。ぽつりと降ってきた言葉に、心臓を掴まれる心地がした。なにかに縋りたくなるような喪失感が襲ってくる。それは身に覚えのある感覚だった。お祖父ちゃんの骨壷包みの白さが、頭に浮かんだ。まだ表面に新品の匂いの残っているリクルートスーツの、胸のところに手をあてる。
――お祖父ちゃん、なっちゃんに会いたかったべ。
母の言葉が、耳の奥で響いて、夏生はちがう、と思った。祖父がどう思っていたかは知らない、死んだ人の声を聞くことはできない。ただわかることは、夏生のほうが、祖父に会いたかったということだけだ。
ずっと側にいて、思い出を溜めてきた人が、自分の知らないところで死んでしまうことが、どうしようもなく怖かった。触れたことのある肉体が動きを止めること。ふたりだけの思い出の、片方が失われること。祖父の中に広がる宇宙が、消えてしまうこと。それらのすべてが、夏生のあずかり知らぬところで起こること。それが怖かった。
「失踪ってそんな計画的にすることじゃないっしょ」と沙也加が副手さんにツッコむ。彼女は高遠先生の顔ファンだけれど、先生が休職しても、ずっとドライだ。副手さんは腕にはめている時計を見て「あーん、昼休みもう30分しかないじゃない」と早足で学部棟を離れていった。
沙也加が大きく伸びをして、柚愛と夏生のほうを振り返った。
「昼休みもう30分」
だって、という音は聞き取れないほど小さく、消える。彼女の目の向くところを、夏生も見た。その目線の先は、となりに立つ、柚愛だった。ひどく赤い頬の表面を、涙がするりと伝っていく。
不意をつかれた心地だった。真っ黒なカラーコンタクトが潤んだ光沢をもち、大粒の水が流れだしてくる。唐突な感情の爆発を見て、沙也加も夏生も、互いに呆気にとられていることがわかった。
動きは沙也加のほうがはやかった。「悲しいよね、悲しいよ、だいじょうぶだって」と沙也加が、柚愛を抱き止めるようにして慰める。彼女がなにに共感を示しているのか、夏生にはわからなかった。なんで泣いているの? と尋ねることもできない。夏生だって十分に心を乱されているけれど、泣くほどではなかった。泣くほどではない、なんて冷静に分析している自分がいやになる。なんだかその涙ひとつで、先生への気持ちの質量を量られているみたい。柚愛のような、感情の爆発で高遠先生への愛が示せるのなら、簡単なのに。
「だってえ」と柚愛が沙也加の腕にすがりつきながら鼻声を出す。「うんうんうん」と沙也加が柚愛を腕にすがりつかせながら相槌をうつ。
「探そうね、高遠先生」とだれかが言った。沙也加だったような気もするし、柚愛だったような気もするし、夏生だったような気もする。夏生が心の中で柚愛にかけた言葉だった気もする。ただ、それが心中でも心外でも、その音が聞こえたのはたしかだった。「探そうね、高遠先生」
学部棟の建物のひさしに陽が遮られても、肌には重たい熱風がまとわりついていた。夏生は柚愛を抱き止めることもできず、ただ、立ち尽くしていた。