第一回 人生の選択肢

ためすひと

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 人生の重要な局面での選択肢を、全て間違った果てに今の自分があるのではないかと思う。
 そんなことをぽつりと呟いたら、同僚の前田まえだに、いつまでもガキみたいなこと言ってんなよ、俺らもうすぐ三十だぞ、と返される。
 分かっている。そんなことは、呟いた雄三ゆうぞう自身が一番よく分かっている。
 前田は言いすぎたと思ったのか、嫁さんと子供が可哀想だ、と付け加えて、そのまま話題は半年前に独立した荻沼おぎぬま先輩の話に移行する。
 荻沼の印象は、「嫌われるタイプの体育教師」だった。つまり、やたらと熱血な割に、ほとんど人望がないというような。
 彼の使う「顔晴がんばる」だの「最幸さいこう」だのという、自己啓発のような、一般的なものとはかけ離れた単語の書き換えや、やたらに大きい声が苦手だった。苦手だったのは雄三だけではない。前田も、他の同僚も、彼のことを慕ってはいなかった。
 仕事ができるという印象もない。どちらかというと、上司から苦言を呈されている場面を見たことの方が多い。
 そんな彼だから、会社を辞めると言い出した時も誰も引き留めなかった。
「思い立ったらすぐ行動!」
 とかなんとか言って、彼は辞表を叩きつけて、フロアの真ん中で大声で辞めますと宣言した。
「起業します!」
 あのとき部長の神尾かみおがなんと言ったのか雄三はよく覚えていない。
「はあ、頑張って」
 だったような気がする。いずれにせよ、荻沼はきちんと引継ぎをしてから退職していったのだから、問題はない。どうせ失敗するだろうとか、泣きついてこられたらどうしようとか、そういう話が飲み会で二、三回出た程度で、半年経った今ではもう誰も覚えていないだろう。雄三も前田の口から名前が出るまで、すっかり忘れていた。
「それがさ、めちゃくちゃ成功してるらしい」
 思わず聞き返すと、前田はスマートフォンの画面を顔に近付けてくる。
「ほら、見ろよ」
 MUS、という青字のロゴマーク。どうやら、アクセサリーを販売しているネットショップのようだ。スクロールすると、YouTubeでよく見るインフルエンサーの写真が表示されている。
「これを、荻沼さんが?」
 前田は頷いた。
「すげえよな。テレビには出てないけど、結構ネットで広告出て来るよ。YouTubeとかも。起業して三か月しか経ってないのに」
 雄三は画面に目線を戻した。
 見やすいサイト、広告の有名人、アクセサリーのデザインも洗練されているように見える。
 どうしても荻沼と結びつかなかった。
「羨ましいよなあ」
 前田はそろそろ返せよ、と言ってスマートフォンを雄三の手からもぎ取った。
「どうやったんだろう」
「はあ?」
「だって、あの、荻沼さんだよな。どうやってこんな…」
「まあ金だろ、あと運」
 前田は投げやりに即答した。
「荻沼さんの実家、田舎の土地ころがしで、めちゃくちゃ金持ってるらしい。実家が太いんだよな。まあ、持ってる人なんだよ、元から」
 俺らは地道に仕事仕事、と言いながら、前田は自分のデスクに戻っていく。
 持ってる人。
 そんな言葉で片づけてしまうのは気に入らない、と雄三は思った。
 気に入らない、と言うより、そんなふうに言ってしまっては、雄三や前田のような持っていない―つまり、特別には環境に恵まれておらず、運がさほど良いわけでもない場合、一生成功などできない、ということになってしまう。
 確かに、荻沼は実家の力と運でこの成功を手に入れたのかもしれない。でも、それにしたって、何かきっかけがあるはずだ。
 雄三は、会社を辞めて自力でビジネスをするようなバイタリティのある男ではない。父親のコネクションがあったとは言え、この会社に入社することができたときは嬉しく、さほど待遇の良い職場でもないのに一生勤めていられたらいい、とすら思っている。
 しかし、雄三は漠然と何かに成功したいという気持ち―いや、それですらない。雄三は努力などはしたくない。それでも成功者を羨む気持ちだけは人一倍強い。だから、自分と同じような、特に才能もないのに成功している荻沼のことが気になるのだ。
 胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、連絡先一覧に、荻沼の名前が残っている。
 迷わず電話をかけた。