第三回 選択の小箱

ためすひと

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前回のあらすじ

「ゴミの養分になることから、あなたを救ってあげたい」―つまらない人生を変えるために「起業セミナー」に参加した雄三は、セミナーの講師を冷ややかに見つめる謎の美青年と出会う。彼は、雄三のような人間を救うためにここに来たと言うが…。

 ゴミとは、セミナー関係者や、父親のような存在を指すのであって、雄三のような弱い人間はゴミではない。ただ養分なだけだ。搾取されているだけだ。
 気が付くと、机の上にぽたり、ぽたりと涙がこぼれた。
「ああ、泣かないで」
 久根は胸ポケットから上等そうなハンカチを取り出し、優しく雄三の目元を拭った。
「悔しいですよね。あんな詐欺師どもに二十万円以上取られたなんて」
 悔しいのではない、と言おうとしても、言葉にならなかった。
「大丈夫ですよ。私は、まさに雄三さんのような方のためにいるので」
 久根は雄三が落ち着くのを待って、アタッシュケースから小さな木製の箱を取り出した。
「寄木細工…とかですか?」
「はは、確かに似ていますね」
 複雑な木目調の箱は、久根の手にすっぽりと収まるほど小さい。
「これはね、選択の小箱です」
「選択の小箱…?」
 雄三がおうむ返しをすると、久根はそうです、と頷いた。
「この箱を持って眠ると夢を見ます。夢に人生の分岐点が出てきます。全部で三回、選択を間違えなければ、あなたの人生はがらりと変わる。確実に良い方向に」
「ちょっと、ちょっと待ってください」
 久根は小首をかしげて雄三を見つめた。
「何か?」
「急に、何の話ですか? 意味が分からない。選択の小箱って…夢って…挙句、人生が変わる? どういうことですか? 信じられるわけがない」
 久根の話は、非現実的でとても信じられない。だが、久根の表情からは人を騙そうという悪意はうかがえない。
 むしろ、信じられないと言っている雄三がおかしいのではないか、とすら思ってしまう。何をしてもらったわけでもないのに、既に雄三は、久根にかなり心を許してしまっていた。
 雄三は自分のおかしくなってしまった思考にあらがおうと、必死にまくしたてた。
「そんなの、セミナーの人たちが言ってる、あなたはできるとか、変われるとか、そういうのと同じ…いやそれより胡散臭いですよ。あ、分かりました。久根さん、あなた僕を騙そうとしているんですね。霊感商法ですか? 随分優秀なんでしょうね。こんなに綺麗な顔をした人が、親し気にカフェに誘って来るなんて、おかしいと思ったんだ!」
 雄三は席を立とうとする。
「何か勘違いされているようですね」
 久根はハンカチで涙を拭った時と同じように、優しく雄三の頬を撫でた。
「説明が急で、分かりにくかったですね。すみません」
 今日会ったばかりの男に、頬を撫でられている。異様な状況なのに、何故か心が落ち着いてくる。抱き着いてしまいたいくらいだが、この感情がどこから来るのか本当に分からない。
 ゴミではない、と言ってもらえたからだろうか。久根は雄三を救う何者かである、そんな気がする。
 外気で冷やされた指先が頬に触れて心地好い。
 雄三は一度上げた腰を、また椅子に降ろした。
「まず言っておきたいのですが、霊感商法ではありません。なぜなら、お金は頂かないので」
 久根は雄三の頬から手を放し、長い指で箱の角を弄んだ。何か入っているのか、からからと音がする。
「確かに私は古物商ですし、久根販売は骨董品などを取り扱っていますが、これはそういったものではありません。私の作った私個人の持ち物で、あなたに差し上げます」
 雄三が話そうとするのを遮って、
「落ち着きましたか?」
 赤のような、灰色のような、青のような、見たこともない色の目だ。雄三よりずっと背も低く、華奢きゃしゃなのに、この目に見つめられると何かとてつもなく大きなものと対峙しているような気分になる。
 それはセミナー関係者たちの強い言葉に圧倒されたり、父親に威圧されているときの気分とは全く違った。大きなものに包まれているような、安心感に近い。
 雄三は惚けた表情で久根の双眸を見つめ返した。
「落ち着かれたようなので、もう一度説明しますね。この箱を持って眠ってください。そうするとあなたは夢の中で人生の分岐点に直面することになる。三回です。三回、正しい選択をすれば、あなたの人生は変わるでしょう」
 久根は人差し指を立てた。
「注意事項があります。一度選択したら、やり直すことはできません。そして、その選択や、前の人生―現在ですね。現在雄三さんが生きているこの人生を振り返るのもやめた方が良いでしょう。選択の先に、未来はあるので…選択して、結果捨てることになったもののことを考えてしまったら、正しい選択は、著しく難しくなると思います」
 久根は椅子にかかっていた上着を羽織り、席を立った。
 アタッシュケースを持ち、そのまま雄三に背を向ける。
 まさか言いたいだけ言って、帰るつもりなのか。
 もっと久根から話を聞きたかった。話を聞かなくてもいい、ただ、一緒にいるだけでも。
「あの、久根さん…」
勿論もちろん使うか使わないかは雄三さんの自由です。でも覚えておいて下さい。選択しなければ何も変わらない」