第六回 最後の選択

ためすひと

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前回のあらすじ

3回の選択を間違えなければ、人生を変えることができるという「選択の小箱」。ふたつ目も正しい選択をした雄三は、美しい妻と裕福な生活を送り、仕事もせず、暇つぶしに浮気を繰り返していた。

 他の女とこのような関係に陥っているのを見たら舞子が悲しむことくらい、いくら雄三でも分かっている。
 でも、犬と犬が交尾をしていたとして、人間には関係がないではないか。智恵理も雄三も犬であって、人間の舞子には関係がない。
 智恵理と二、三語交わしてから、服装を整えて、雄三は智恵理の家を出た。
 そして彼女の言った通り、駅を一旦通り過ぎて、階段を下る。電柱に『サクレ この先200m』と書いてあった。雄三は案内通りに直進する。
 智恵理の家も近代的で美しい造りをしていたが、この辺りはどうもそのような家が多いようだ。洗練されたデザインで、少し遊び心のようなものも感じる。
 実家のことを思い出す。
 父親が一生懸命働いて建てた家だというのは分かる。しかし、父親の傲慢ごうまんさや頑固さをそのまま家にしたとでもいうような、古風な日本家屋だ。雄三はあの家が嫌いだった。
 中学生のとき父親に反抗してから、父親は雄三のやることに口を出してはいない。以来、母親や他の兄弟に暴力を振るったりもしていないようだ。対外的には寡黙で温厚な人間だと思われているらしいと母親から聞いた時は驚いた。
 家を一番早くに出た姉の桜子さくらこは、大人しくなったお父さんとは付き合いやすいとまで言って、実家に帰ってきたときは二人で食事に行ったりもしている。桜子はきょうだいの中で一番勉強ができたが、「女に勉強させても仕方ない」と父親に言われて大学受験を諦めたのに、そんなことは忘れてしまったようなのだ。
 もしかして、傲慢で頑固で、全ての人間を見下し暴力を振るう父親の姿を覚えているのは雄三だけかもしれない。粗暴な父親の姿は『前の人生』の記憶であって、今の人生には無かったことなのかもしれない。それでも、雄三は実家のことも父親のことも、時折思い出しては不愉快な気分になる。
 美しい家々を眺めていると、突然、金切り声が耳を貫いた。
 声の方に視線をやる。道の反対側のバス停だった。
「やめてください!」
「俺のこと馬鹿にしたみたいに見ただろうが、なあ!」
「見てません!」
 小柄な女が襤褸切れのような男に怒鳴られている。男は傘まで振り回して、女を脅していた。顔をしかめたくなるような不健康な醜さだ。傘を振り回す度に悪臭がこちらにまで漂ってくるようだった。
 女が縋るように辺りを見回している。その顔を見て、雄三は一瞬息が止まりそうになった。
 花梨だった。
 前の世界で雄三の妻であったときはいかにもくたびれた子持ちの主婦という印象だった花梨も、この世界ではきちんと髪型を整え、化粧もしていて、雄三が好きになった健康的な可愛らしさがあった。
 乾いた音がして、傘が花梨の腕に振り下ろされる。
「痛い!」
「何が痛いだ、被害者ぶりやがって!」
「誰か助けて!」
 花梨は両腕を顔の前に上げて、振り下ろされる傘から必死に身を守っている。よく見ると、お腹も大きいようだった。
「お前、幸せそうだな。幸せそうな顔で自慢げに歩いてたよな。俺にはもう何もないのに、幸せそうに、自慢をしていたよな、成功したのか?」
「何を言ってるの? やめて!」
「成功成功成功成功、成功したのか? 俺がいないからか? お前は、だから自慢、しているのか? なあ、答えろ、なあ」
 傘が花梨に当たるたびに、マタニティの花柄が伸びたり縮んだりする。
 全く忘れていた、学人と明人の顔が思い浮かぶ。いや、忘れてなどいない。雄三にとっては、舞子との間にできた二人よりもずっと、鮮明に思い出せるくらいだ。
 病院で初めて腕に抱いた時、本当に嬉しかった。自分以外の誰かをこんなふうに大事だと思うことができるのかと感動した。
 雄三はきちんと子育てをしたとは言えない。ほとんどのことは花梨に任せきりだった。でも、休日に遊園地に行ったり、公園でひたすら走り回ったり、壁の落書きを消したり―そういう思い出はあるのだ。二人とも、大切だったのだ。
 あの膨らんだ腹の中にいるのは、勿論学人でも、明人でもない。しかし、どうしても。
 花梨の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに乱れている。
「助けて下さい!」
 花梨の左隣に立っていた、でっぷりと太った男はちらちらと視線を向けながら、その場を去ろうとしている。バス停の手前まで来た品の良い子連れの女性は、花梨の声に気付いたのか、直前で進行方向を変えた。
 助けて下さい、と繰り返す花梨の声は、全く無視されている。誰も彼女を助けない。
 男は二回、三回、と連続して花梨に傘を振り下ろした。
 足が地面を蹴って駆け出そうとしている。
 その瞬間、
『一度選択したら、やり直すことはできません』
 足がぴたりと止まる。
 間違いない。これは、三回目の選択だ。