「あと一分」
森の声が聞こえた。見れば口元が緩みかけていた。
笑いに似た表情。それが諦めの表情であることはすぐに分かった。
自分の力ではどうしようもない出来事が起きたとき、堪えきれないほどの理不尽に襲われたとき、きっと彼は、これまでに何度も同じような顔をしてきたのだろう。
だが、森はすぐにその口元を引き締めた。馬券を握った手に力が籠もる。
「いや、まだ分からない。なにがあるのかなんて、誰にも」
森の言葉に、羨望と悲しみを感じた。
確かに人生になにがあるのかなんて、誰にも分かるはずがない。
けれど、分からないからといってよいことが起きるわけではない。実際に起きることといえば、悲しいことかつらいこと、あるいはその両方だ。そして森自身もそのことを分かっているのだろう。
もうやめようよ。
神田里子が口を開こうとしたときだった。
「すみません」
頭の上から声が降ってきて、神田里子と森は、すばやく頭を上げた。
だが、目に入ったのは、制服を着たウエイトレスの姿だった。
ウエイトレスは、二人のあまりに素早すぎる反応にたじろいだように、少しだけのけぞった。
「モーニングセット、お待たせいたしましたー」
それでもサービス業らしい笑顔を浮かべて、ウエイトレスが言う。
神田里子は、思わず森と顔を見合わせて力ない笑いを交わした。
注文したメニューを運んできたウエイトレスは、知り合いとはいえない。
まあ、そういうものだ。奇跡など、そうそう起こるものではない。ましてや、自分のくだらない人生に。
そもそも、こんな賭けを提案したのは自分だ。
もしかすると、人生が変わったかもしれないチャンスだった。けれど、それを自分で逃してしまった。
「ごゆっくり、お楽しみくださーい」
てきぱきとトレイの上のものをテーブルに並べると、ウエイトレスは頭を下げてから、神田里子を向き直る。
「いつも、ありがとうございますー」
「え?」
神田里子はウエイトレスを見つめた。
若くて可愛らしい、純朴そうな顔立ちの女性。
今までこの店に来たことはなかった。
初めての客にも、そんなことを言うのだろうか? それとも、自分と似た別の常連客でもいるのだろうか?
戸惑っている神田里子に、ウエイトレスは微笑んだ。
「センキュウヒャクニジュウヨ円ですー」
ウエイトレスが、少し声を高くして言った。
(つづく)