三日目【15】 「分からない」神田里子は小さな声で呟いた。
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前回のあらすじ
風俗店に勤める神田里子は、なじみ客の森から「結婚前提で付き合ってほしい」と告白される。翌日、初見の客のもとへ向かった里子は、部屋に隠れていた男たちに襲われるが、部屋に飛び込んできた森に助けられた。二人は「ファミレスで知り合いに声をかけられるかどうか」で賭けをすることに。
神田里子はウエイトレスの顔から、胸に視線を落とした。そこにピンで留められた銀色の名札には、ひらがなで「ちん」と書かれていた。
再び、神田里子は視線を戻した。
「コンビニの?」
「あれは平日で、週末は、ここでバイトしていますー。留学生なんですー」
「そう、なんだ……」
「それでは、ごゆっくりー」
ウエイトレスは再び丁寧に頭を下げると、軽やかな足取りで別のテーブルに向かって行った。
「あの……」
おずおずと、森が言った。
「今の人は……、知り合い?」
ファミレスから出てタクシーに乗り込んでも森は戸惑ったような顔のままだった。
賭けに勝って喜んでいる様子はなかった。実際、ウエイトレスに話しかけられてから、賭けがどうのという話は二人の間では出なかった。
シートに座った神田里子は、できるだけ何気ない口調で言った。
「家に来ない?」
ミラーの中で、森の目が丸くなる。
「恥ずかしいぐらいに汚いけど」
「……いいの?」
「いいよ」
神田里子は言った。
「結婚はまだ、分からないけど」
「……ありがとう」
森がぼそぼそと言った。
「いや、違うな……、その、これからよろしくお願いします」
その口調に神田里子は思わず笑ってしまった。
「こちらこそ」
少し離れた場所に駐車場を見つけてタクシーを停め、二人でマンションに入った。
階段ではなく、動きの遅いエレベーターを待つ。ずいぶん時間が経ってから、エレベーターがやってきて、ゆっくりゆっくり運ばれる。
その間も、不思議でならなかった。
どうして私は今、この人と、ここにこうしているんだろう?
「ここ」
ドアを開けて森を招き入れる。
「本当に散らかってるでしょう?」
玄関先に積みあがったダンボールを見ていた森は何かを言おうとしていたが、その状態を礼を失せずに表現する言葉が思い浮かばなかったのか、結局は「うん」と頷いただけだった。
奥のリビングからは、点けっ放しのテレビの音が聞こえていた。