「入って」
 神田里子は先に立って、部屋に上がった。そうしてゴミだらけの廊下を進みながら、我ながら汚い、と思った。
 どうしてこんな部屋で、ずっと平気で暮らせていたんだろう?
 何とか場所を作り、二人でそこに腰を下ろす。
「何か飲む?」
 そう訊ねると、森は首を振った。
「それよりも、さっきのことなんだけど」
 森が言った。
「さっき、ファミレスで言ったよね。どうして私なんだって。僕がなんて答えたか、覚えてる?」
「分からない、って」
「君と初めて会ったとき」
 森は訥々とつとつと言った。
「一目惚れしたとかじゃないんだ。でも別れてからも、君のことを考えてた。信号待ちの車の中とか、初めて行く場所でお客さんを降ろしたあととか、ひとりで食事をしているときとか、そんなときに必ず君の顔が浮かんで来た」
 そう言うと、森は気まずそうに顔を伏せた。
「最初は勘違いかと思った。その、僕はそれほど女性と付き合った経験はないし、デリヘルも、初めてだったし。そのせいかもと思って、別の女の子を呼んでみたこともある。でも、そうじゃなかった。浮かんでくるのは、やっぱり君のことだけだった。気を悪くしたら、ごめん」
「気なんて悪くするわけないじゃない」
 神田里子は言った。
「私も、働いてるんだから…、いや、働いてたんだから」
「仕事、辞めるの?」
「そう思ってる」
 森は軽く頷いたきり、何も言わなかった。
「本当?」
 神田里子は訊ねた。
「え? なにが」
「だから、他の女の子を呼んでも、浮かんでくるのは私のことだけだって」
「ああ、うん」
 森が勢いよく頷く。
 それを見て神田里子は思わず噴き出した。
 そして思った。
 ああ、笑ってる。
 たった二日前までは、こんなことになるなんて思わなかった。それを言うなら、昨日、いや、半日前でも。
 では。
 二日後には、どうなっているのだろう。二日後でなくてもいい。明日は? 半日後は?
「分からない」
 神田里子は小さな声で呟いた。
「え?」
「なんでもない」
 そう。分からない。いつだってそれは正しい答えだ。
 それに、半日後のことが分からなくても、これから数時間のことは分かっている。
 セックス? 部屋を片付ける? お茶を勧める?
 いや、手始めにやることは決まっている。
「まだ、大事なこと、言ってなかった」
 神田里子はひざを正した。
「な、なに?」
 森が明らかに緊張するのが分かった。
「すごく大事なこと」
 神田里子は、そっと森に近づいた。
「私の、名前」

(つづく)