先ほどから、子供はぴくりとも動かない。ただ銀色の筒がきらり、きらりと光を揺らし続けている。
 風だろうか? いや、そんなはずはない。洞の中には風は届かない。
 だったら…、あれは、あの子が動かしてる?
 そう考えたのは頭の一部だけだった。川西淳郎の体は、本人の意志とは関係なく、水しぶきを上げながら川を渡り続けていた。
 水はすでに膝の高さを越えていた。流れもますます強くなり、少し気を抜いただけでそのまま体を持っていかれてしまいそうだった。
 それでも川西淳郎は子供を見つめながら、ただひたすら、前に進んだ。
 ようやく川を渡り切り、崖に取りつく。岩や露出した木の根を手がかりにして体を持ち上げる。
 川向こうから見たときにはそれほどの高さはないように思えたが、少なくとも、身長の倍以上の高さがある。
 けれど、何かに押されるように、川西淳郎は崖を登り続けた。
 ようやく手が崖の上に届いた。肩の関節に痛みを覚えたが、それに構わず、川西淳郎は体を持ち上げる。洞に近づく。
 そこに、子供がいた。マネキンではない。人間だ。顔は薄汚れて、排泄物の悪臭がする。
「おい!」
 声を掛けても反応がない。
 死んでいる? そう思ったとき、子供の目蓋まぶたがかすかに動いた。
 首に手を当てる。とく…、とく…、と皮膚の下を血が流れていく感触がある。
 死んではいない。生きている。だが、死んではいなかったにしろ、子供は生を離れて、死者の世界に近づきつつある。
 そして、そこまでの距離はごくわずかに思えた。
「しっかりしろ! 今助けてやるからな!」
 川西淳郎は上着を脱いで子供をくるんだ。両手に抱き上げる。
 軽い。けれどまだ温かい。十分に温かい。
 生きている。
 不意に、それが自分の子供であるような錯覚を覚えた。生まれて来なかった子供。我が手に抱くことが出来なかった子供。
 麻由まゆと一緒に、この世を去った子供。
 絶対に、死なせてはいけない。
 もし、今この子を見殺しにたら、自分は子供を二度も失うことになる。
 あんな思いは、一度でたくさんだ。
 早く山を降りて助けを呼ばなければ。そして今度こそ、大切な命を守らなければ。
 川西淳郎は子供を抱く手に力を込めた。
 頑張れ。今、助けるからな。死ぬなよ。
 そうして前に進もうとしたとき、名前を呼ばれたような気がした。

 ―淳郎

 川西淳郎は振り返った。
 そこには、斜面を降りるときに使ったロープがぶら下がっていた。そして、風に揺れるロープの下で、麻由が笑顔を浮かべて、静かに手を振っていた。
「気をつけてね。それで、ちゃんとご飯食べてね」
 川西淳郎は背中を向けると、子供を抱いて山を降り始めた。

(つづく)