『初めから子供を捜すつもりで山に入られたんでしょうか?』
『いえ…、天気もよかったので、ちょっと気分転換のつもりで…』
『他の捜索隊と違って、山頂のほうに向かわれたのはどんな思いで?』
『あの、ですから、子供を捜そうというつもりはなくて、結果的に…』
「なんでこの人、こんな格好してるの?」
 神田里子は素直に疑問を口にした。男性が着ているのは、会社勤めの男が着るような黒いスーツで、しかもやけに派手な、オレンジ色の大きなリュックを背負っていた。
「さあ…」
 森も隣で首を傾げている。
 どれだけ考えても、その疑問には答えが出そうにはなかった。
「買うもののメモ、作っていこうか」
 神田里子が言った。母親の代わりに家事をしていたとき、無駄遣いをしないようにと買い物には必ずメモを作って行った。これも、ずいぶん長い間、忘れていたことだ。
「何もないから、全部買わないといけないけどね。そうだ。嫌いなものある?」
「うーん…、特にないけど…、セロリがちょっと」
「なんで。美味おいしいのに」
 二人でキッチンの戸棚を開いて中を調べて、メモを作って、一緒に部屋を出る。来たときとは逆の方向に向かって歩く神田里子に、森が不思議そうな顔になる。
「エレベーター、こっちじゃないの?」
「ここの遅いから。階段で行くほうが早いよ」
 そう言ったとき、隣室のドアが開いた。
 出てきたのは、男女の二人組だった。片方は引っ越してきたとき挨拶に来た地味な感じの女性。その夫らしい男性とは初対面だった。二人とも、大きなキャリーバッグを持っている。
「こんばんは」
 神田里子が声を掛けると、二人はぎょっとしたような顔になった。夫らしい男が「どうも」と呟き、女性の手を乱暴に引いて、足早にエレベーターのほうへと歩いて行く。エレベーターを待つ間も、こちらに顔を背けるようにしている。
「なんだろう?」
 怪訝そうに言う森に「さあ」と小声で答えて、神田里子は階段のほうへと歩いた。
 あんなに大きな荷物を持って、旅行にでも行くのだろうか? 子供は一緒じゃないのだろうか? どこかに預けているのだろうか?
 かすかにそんなことを思いはしたものの、神田里子はそれ以上、気に留めることはなかった。
「ほらね」
 階段を降りてエレベーターホールまで来ると神田里子は言った。エレベーターは、まだ上のほうの階でうろうろしている。
「これから何回も来るんだから、覚えておいたほうがいいよ」
「そうするよ…、あ、そういえば部屋の電気、消したっけ?」
「ええと…、点けっ放しかも。いつも忘れちゃうんだよね」
「今度からは、僕が覚えとく」
 マンションを出ると、すでに日は暮れていた。神田里子は新鮮な夜の空気を吸い込んだ。
 ふと、視界の隅を何かがよぎった気がした。が、そちらに目を向けても、無人の路地の入り口や、エアコンの室外機が並んでいるだけだった。
「どうしたの?」
「ううん」
 神田里子は首を振った。
「猫か何かだと思う」
 そう言って、思いつく。
「猫は好き?」
「うん。飼おうかと思ったこともあるけど、一人暮らしだから」
 そんなことを話しながら、並んで歩く。
 これからこの人の、色々なことを知っていく。少しずつ、少しずつ。これまでとは違う、新しい生活が始まるのだという実感がこみ上げる。
 それがどんなものなのかもまた、分からない。よいものであればいいとは思うが、そうでないかもしれない。隣を歩く男は自分にとって大切な存在になるだろうか。
 そうであればいい。けれど、もしそうなったらそうなったで、いつか自分はまた、それを失うかもしれない。
 どうなるかは分からない。
 先のことは何も分からない。だったら、目の前の道を、歩いていくしかない。

(つづく)