今、川西淳郎はベンチに座り込んで、思う。
これから自分はどこに行こうとしているのだろう。あの誰もいない、無人の部屋に帰ろうとしているのだろうか? あるいは、今度こそ大きな橋に?
片方は生、片方は死。
そう単純には割り切れない。これから生きるぞと部屋に帰る途中、整備不良の車に轢かれたり、暴漢に襲われたりすることもある。あるいは、頭の上から飛び降りてきた誰かの体にぶつかるとか。
橋に行ったとしても、今夜もまた事故が起きて通行止めになっているかもしれない。あるいは橋から飛び降りようとしたその瞬間に、川で溺れている子供を見つけるかもしれない。
川西淳郎は上着のポケットから手帳を取り出した。この先の予定は真っ白だった。生き続ければ、またこの空白が埋まっていく。
そうだろうか?
「これから、どうしたらいいんだろう」
川西淳郎は隣を向いて訊ねた。そこに麻由がいることを期待して。
けれど、外灯のスポットライトはただ、川西淳郎ひとりを照らしていた。
自分は生かされた、生かされたことには意味がある。その証拠に、自分は子供を助けることができたではないか。
それは真実だ。
けれど、だからといって妻と子供を失った苦しみや悲しみがなくなるわけではない。それはいつかは薄らぐかもしれない。麻由と子供のことを忘れる日が来るかもしれない。
そうはならないかもしれない。
手帳を繰っていた川西淳郎の手が止まった。手帳の二ヶ月先の日付けに、ひまわりのシールを見つけた。
ひなたのたんじょうび。
川西淳郎は、しばらくその幼い文字を見つめた。
仕方ない。次はここまで、生きてみるか。
それにしても、部屋はすっかり片付けてしまった。服も靴も、今、身に着けているものしかない。二ヶ月とはいえ、その間、生活するためには、あれこれ新しいものを買い求めなくては。こんなことなら、あの当たり馬券を老夫婦のバッグになど入れるのではなかった。
気付けば腹も減っている。まず何か食おう。そして、ゆっくり風呂に入ろう。今のところ、全身の筋肉は重いだけだが、明日になれば目も当てられないほど、あちこちが痛んでいるだろう。
そうだ、明日は会社に行かなくては。
もしかすると、会社の広報を通してマスコミが連絡してくるかもしれない。その対応もしなければいけないのか。ああ、その前に、まず下着。またコンビニで新しい下着を買わなければ。
生きるというのは、なんと面倒なことだろう。面倒に次ぐ面倒。きちんと死ぬことの面倒さと比べても、いい勝負だ。
少し笑いながら、そう思ったときだった。
ぽたり、とひまわりのシールに水滴が落ちた。膨らんだ水の表面に黄色が膨れ上がる。
雨か。
ここ数日、いい天気だったのに。でもまあ、たまには雨も降らないとな。
そう思って川西淳郎は空を見上げる。そこには雲はなく、代わりにいくつか星が浮かび、大きな月が光っている。
天気雨?
再び手帳に目を落とした川西淳郎の視界が滲んだ。ひまわりのシールが見えなくなる。
鼻の奥が痛む。息が苦しくなる。
ぽたり、とまた、水滴が手帳に落ちる。
泣いている、と自覚すると同時に、川西淳郎は口と鼻を押さえた。
涙は止まらなかった。なにか分からない黒い塊が喉にこみ上げた。大きく息を吸おうとしてしゃくりあげ、鼻を啜った。そのたびに新しい涙が零れ落ちて、手帳に染みを作る。
川西淳郎は泣いた。
小さな手帳に顔を突っ伏して、愛する妻と、生まれることのなかった子供を思って、ひとり、泣き続けた。
(つづく)