三日目【20】 君だけでない。それは誰にも分からない。

タニンゴト

更新

前回のあらすじ

朝、コンビニエンスストアですれ違った3人の男女。生きる理由を失くしたサラリーマン、未来に希望を持てない大学生、自分の幸せを忘れた風俗嬢。彼/彼女らがこの場に居合わせたのはまったくの偶然だ。ありふれた偶然。そこになにかが生まれることなど、ない。…本当に? 人生が変わる72時間を描くノンストップ・エンターテインメント、感動の最終話!

Photo/Tatsuro Hirose
Photo/Tatsuro Hirose

 君は眠っている。柔らかい布団、清潔なシーツに包まれて。
 近くには優しいおかあさんがいる。
 心配することは何もない。怖いものもやって来ない。痛みもない。苦しみもない。
 そうであれば、どんなにいいだろう?
 君は、同じ場所にいる。誰に知られることもない。
 助けは来ない。
 目を開けようとする。実際に、目蓋まぶたは震える。それだけだ。体の中には、もう目蓋を開くだけの力も残されていない。
 かすかな裂け目から、君は世界を見る。
 世界は暗闇に塗りつぶされている。君の目は、もう何も見ることができない。
 そして、君がそれを感じることもない。
 意識は薄れる。自分が何者であるのかを理解することもできない。ここに入れられて、どれぐらいの時間が経つのかも、考えられない。
 おかあさん、と君は呟く。声は出ない。乾ききった唇と舌は動かない。かすかに震えるだけだ。
 それでも君は、おかあさん、と呼びかける。
 たすけて、おかあさん。
 おかあさんは、君を押入れに閉じ込めた人間だ。水も食べ物も与えず、トイレにも行かせなかった人間だ。ある日突然、見知らぬ男を連れてきて、「おとうさん」と呼ばせて、その男は君を何時間も水風呂に入れたり、顔がはれ上がるまで殴りつけたり、煙草の火を押し付けた。それでも、おかあさんは、なにもしてくれなかった。挙句の果てに、おかあさんは「おとうさん」と出て行った。
 それでも君は、おかあさんを求める。
 おかあさん。たすけて。
 いうこときくから。
 いい子にするから。
 たすけて。
 君はそう考える。けれどその考えも途切れ途切れになる。
 暗闇が、君を飲み込もうとする。
 諦めもない、悲しみもない世界が近づいてくる。もう君には、何をすることも、考えることも、感じることも、できない。
 暗闇が口を開ける。
 君はそこに、呑まれる。
 きゅりきゅり、と窓が開く音がする。がた、と押入れの襖が揺れる。
 おかあさんが戻って来てくれたのだろうか、と君は思う。かすかに思う。暗闇に飲み込まれかけ、ほんのかすかに残った思考力で、そう思う。そう思ったことが、君をこの世界に踏みとどまらせる。
「無用心やなあ、窓の鍵はしっかり掛けとかんといかんで、いちごちゃん」
 襖の向こうから、そんな声が聞こえる。
「それにしても待ちくたびれたで、なかなか部屋の電気が消えへんもんやから。きっとあの男とええことしとったんやろ。俺にはやらせへんくせに」
 男の声。そしてそれに続く物音。
 それを聞いても、君は不審に思うこともおびえることもできない。もはや感情を動かす力も、君にはない。暗闇のすぐ手前で、そのときを待っていることしかできない。
「せやからなあ、俺がいちごちゃんの金借りるのも、いうたら、損害賠償や。その中には、俺が払った金も入ってることやし。でもなあ、ホンマはこんなこと、やりたないねんで。仕方ないねん。昨日の仕事が上手いこと行ってたら、こんなことせんで済んだんやけどな」
 襖の向こうからは男が一人で話す声が続く。
「お? なんや、えらい押入れは厳重やな。釘まで打って。ということは、金はここに隠してあるんか? きっと貯めこんどるんやろうなあ」
 しばらくの間。
 やがて、みしみし、と木がきしむ音が続く。
 ふすまが開く。君の小さな体を、五日ぶりの新鮮な空気が包む。
「うわあ! く、臭!」
 男が叫び声を上げる。
「な、なんや、子供やんけ! 死んでんのか? なんでこんなところで、子供が死んでんねん! ちょ、ちょっと待ってくれや。あかん、やばい。これはやばい」
 男が右往左往する。
 誰だろう? ぼんやりとしか姿は見えない。けれどそれが「おとうさん」ではない男だと分かる。
 よかった、と君は安堵する。安堵した瞬間、かすかな声が出る。
「え? 今、なんか言うたか? 死んでないんか? 生きてるんか?」
 男の声が近づく。男の荒い呼吸が聞こえる。
「ええい、くそ! なんでこんなことに! くそ! くそ!」
 男はもはや、声を殺そうともしていない。
 やがて足音を立てて、男がどこかに去る。