君はゆっくりと息を吸う。相変わらず目は見えない。それでも、少し世界が明るくなったように思う。
 暗いよりも明るいほうがいい。このまま、どこかに行ってしまうにしろ。暗いところよりも、明るいところのほうが好きだ。
 男の足音が戻ってくる。
 君は感じる。唇にかすかな水が垂らされるのを。それを飲み込む力はない。けれど、その数滴の水は、渇いた体の中に染み込んでいく。
「頑張るんやで。死んだらあかんで。な? 頑張るんや。頑張らな、あかん!」
 それからためらうような間。やがて男の手が二、三度、励ますように体を優しく叩くのを感じる。
 再び足音。そして男の声が続く。
「119番か? 頼む、子供が死にそうなんや! すぐに来てくれ。住所? 分かるかいな、ええと、コンビニの近くのマンションで、四階や! とにかく、急いで…」
 君は男の声を聞いている。言葉の意味は理解できない。今の君には、理解する力はない。
 自分が生き延びたのかどうかも、生き延びたことがよかったのかどうかも、君には分からない。
 この先の君には、何が待っているのだろう?
 良いこともあるだろう。しかし、きっと良いことばかりではない。悪いことのほうが多いだろう。
 この先、眠りに就くたびに、何度も何度も、君はこの暗闇を夢に見るかもしれない。
 もしかすると、成長したあと、誰かを傷つけるような人間になるかもしれない。
 いつか誰かの親になるかもしれないけれど、そのときには自分がされたように、子供を水風呂に沈めたり、火のついた煙草を押し付けたり、その様子を見て笑ったりするかもしれない。水も与えず子供を押入れに閉じ込めるようなことが、あるかもしれない。
 あるいは、誰かに救いの手を差し伸べることが、あるかもしれない。
 それは君には分からない。
 君だけでない。それは誰にも分からない。

       *

 朝。コンビニエンスストア。店内には七、八人の客。
 彼/彼女らは、皆、異なる目的を持っている。
 あるいは目的を持っていない。
 たとえば、ケースに陳列された食べ物を眺めるスーツの男。片手にはビジネス用のバッグを提げている。身に着けたスーツは男の体に合っていない。量販店であわてて購入したもののように見える。そのせいか、それとも別の理由なのか、男はとても居心地が悪そうに見える。男が何を考えているのか、何を感じているのかは、男以外の誰にも分からない。
 たとえば、雑誌コーナーの若い男。大きなスポーツバッグを床に置き、今日発売された雑誌の立ち読みを始める。が、すぐにそれを閉じて棚に戻す。もともと、別に大した興味もなかったのだということを思い出したように。そしてコンビニの入り口に目を向ける。年恰好と顔立ちがそっくりの、もうひとりの若い男が入って来る。それを見て、笑顔を浮かべる。
 たとえば、長い髪の女。食パンを選んでいる。選んだ品物を、傍らの男が持っているカゴに入れる。ふと気付いたように、男の襟に手をやって、ネクタイを調え、二、三度、軽く男の胸を叩く。やがて女はレジに並ぶ。笑顔で迎えた店員が栄養ドリンクのケースを指差す。女も笑って首を横に振る。
 彼/彼女らは、互いの存在に関心を払ってはいない。
 それでも互いの存在をわずかに意識することはある。
 たとえばスーツの男は、長い髪の女と連れの男に複雑な視線を投げかける。羨望と悲しみと祝福が入り混じったような視線。
 たとえば長い髪の女は、通路で若い男とすれ違うとき、少し身を引いて相手に道を譲る。譲られた若い男も「ありがとうございます」と頭を下げる。
 たとえばスーツの男は若い男の連れに「あの、子供助けた人ですよね? すごいですね!」と声を掛けられて、恥ずかしそうに「いやいや、単なる偶然で」と顔を伏せる。
 そんなことは、些細なことだ。
 だから、すぐに忘れる。
 彼/彼女らにはそれぞれの人生がある。それがどのようなものであれ、自分の人生を生きるのに手一杯だ。
 彼/彼女らは、ただ自分の人生を生きる。できることはそれしかない。
 もしかすると、これからもまた、どこかで互いの姿に目を留めることがあるかもしれない。
 あるいは目が合うことすら、あるかもしれない。
 そのとき、今、この瞬間に起きたことを思い出すだろうか? 思い出すかもしれない。思い出さないかもしれない。
 改めて言うまでもなく、彼/彼女らがこの場に居合わせたのはまったくの偶然だ。
 ありふれた偶然、取るに足らない偶然、まったく無意味な、偶然の出来事。
 けれど人生に、本当に無意味な偶然など、あるのだろうか?

(おわり)