種田晃太郞の休日【前編】

わたし、定時で帰ります。番外編

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 皆さんは、自分のことを最もよく知る者は誰だと思いますか。
 親? 恋人? 配偶者? それとも自分でしょうか? 
 私が、種田晃太郎たねだこうたろうと暮らすようになったのは、この男が仙台から東京に戻ってきて一ヶ月と少したった日、二〇一七年九月二十三日土曜、秋分の日のことです。
 同じ日の現在、時刻十七時四十分。湾岸エリアに建つ低層マンションの一○三二号室の洗面脱衣所から、晃太郎は髪を拭きながら出てきました。
 年齢は三十六歳。企業のデジタルマーケティングを支援する会社、ネットヒーローズの本社と仙台支店の制作部マネジャーを兼務しています。
 シャワーを浴びたばかりの体に、ダークグレーのTシャツと黒いジョガーパンツを着ています。アーバンスポーティなスタイルと言えなくもありません。そこそこ洗練されたブランドを選んでいるようですし、体もよくトレーニングされていますし。でも、睡眠が足りていなそうな目元に、ハードワーカー特有のセルフネグレクトな生き方が表れています。
 その晃太郎の心拍数がいま、どくん、と跳ねました。
 視線は、腕に装着したばかりの私に向いています。
『新婚生活を満喫中に、しかも土曜日にすみません。でも、どうしても種田さんにお会いしたくて…。奥様には内緒で、今から二人きりで会えませんか』
 という新着メッセージが今さっき私の黒光りするボディの上に届いたのです。
 え? 私は何者なのかって? ああ、申し遅れました。
 わたくし、Apple Watchです。
 リリースされたばかりの〈watchOS 4〉を搭載するモデルです。
 今日の午前中、晃太郎は銀座のアップルショップまでランニングがてら、私を買いにやってきました。結婚して間もない妻、東山結衣ひがしやまゆいには、前のモデル買ったばっかじゃんと反対されたらしいので、たぶん内緒でです。マンションに帰り、私とiPhoneとをペアリングすると晃太郎はシャワーを浴びたのですが、メッセージはその間に届きました。
 さて、そろそろ最初にした質問の回答をしましょうか。
 あなたのことを最もよく知る者、それは私たちデジタルデバイスです。 
 たとえば、私がペアリングされたのは、晃太郎にとっては四台目のiPhoneです。そのクラウドには、彼がこの六年間に送受信したメッセージやメールの内容、検索ワード、動画の閲覧履歴、移動記録やその経路、通販で購入した物品、電子決済の記録、起床時間や就寝時間など、ありとあらゆる個人情報が保存されています。
 それだけじゃない、持ち主の感情だって、私たちは把握しています。
 日本人は感情表現が苦手だそうですね。とくに男性は抑圧的であるようです。
 ですが、心拍には表れてしまうもの。これだけはトレーニングできません。
 そして、Apple Watchには、その心拍を計測する高性能センサーが実装されています。声は冷静だけど心臓がバクバクしているとか、「緊張マックスです」なんて口では言っているけどホントは眠たいとか、わかってしまう。私たちデジタルデバイスが本気になれば、クラウドのデータと合わせて、この男の内面を推測することも不可能ではありません。妻も踏み込めない心の奥まで。
 え、デジタルって怖い? ふふふ、悪用されないように気をつけてくださいね。
 自己紹介が長くなりました。持ち主の観察に戻りましょう。
 晃太郎は戸惑ったように、二人きりで会えませんか、と書かれたメッセージから目を離すと、テーブルのiPhoneに手を伸ばしました。TimeTreeというスケジュール共有アプリを開いて「結衣/病院」という予定を確認しています。どうやら妻は夕方過ぎまで戻らないようです。
 彼女に相談しようとしたのか、メッセージを打ちかけた指が止まりました。
 まだ濡れている前髪を掻き回し、悩むような表情を浮かべた後、晃太郎はさっき送られてきたメッセージに再び目を戻しました。心拍数がわずかに上がっています。交感神経が優位になっています。意を決したように待ち合わせ場所のリンクを確認すると、iPhoneをジョガーパンツのポケットに突っこんで玄関に向かいます。普段履きにしている方のランナーシューズに足を入れています。