きっちりと丸いかたちや冬の猫 ③
更新
前回のあらすじ
ハコは一人暮らしの独り身で清掃会社勤務の33歳。週一のルーティンで姪の秋穂と〈コクリコ音楽教室〉に姉を迎えに行くと、今日も絢香ちゃんママがヒステリックな涙声で娘のことを訴えていた。すると突然、その場の空気を一変させるようなショパンの『幻想即興曲』の力強い音が響いてきた。絢香ちゃんママが幼い娘に弾かせたがっているその難解な曲を見事に奏でているのは、保育園児の秋穂だった。

古いアップライトピアノは、本当に調律されていなかった。それどころか、叩いても音の出ないキーがいくつもあった。
そもそも、小柄な秋穂がピアノ用の椅子に腰掛けると、両足がペダルに届かなかった。その状態では、「幻想即興曲」を見事に弾きこなすことなんか不可能だった。
それより何より大前提として、秋穂は一分だって一秒だって、ピアノを習ったことがなかった。
わたしたちがまだ大混乱で、秋穂と彩花ちゃんが泣き出しそうになっていたことにさえ気が回らずにいたとき、お母さん先生が買い物から帰ってきた。幼い女の子二人の怯えた顔を見てとった途端に、お母さん先生はものすごく強くなって、ぎゃあぎゃあ騒ぐ彩花ちゃんママを一喝した。
「黙りなさい!」
これで、わたしたちも正気に戻った。
古いピアノが正しい音を出せないことは、お母さん先生がその場で鍵盤を押して証明してくれた。秋穂に、もう一度鍵盤に手を置かせてみても、ぜんぜん指を動かせないし、もちろんメロディを弾くことなんかできないのも明らかだった。
わめくのはやめても、まだ先生方を睨みつけていた彩花ちゃんママも、そのへんからようやくクールダウンしてきた。つり上がっていた目尻が下がり、目の色が落ち着いた。
「それじゃ、さっきのあの演奏は何だったんですか」
そう問いかけてきた声音には、まだ不満の濁りがあったけれど、責めるような棘は消えていた。
「何だったのかと言うならば」
お母さん先生は、古いピアノの鍵盤を愛おしむように撫でて、微笑んだ。
「わたしたち人間の考えは及ばない、音楽の神様の御業でしょう」
神様は、希にこういう奇跡をお見せになるのですよ――
「わたしたち人間が、美しい音楽の神秘の力に憧れと愛情を捧げ続けることができるように、ね」
就学前の、ペダルに足の届かない、一秒もピアノを習ったことがない幼子の手で、難曲を弾かせてみせたのだ。
わたしたちは黙って、古いピアノを取り囲んでいた。すると、加奈子先生が急に息を呑んだような声をたてた。
見れば、涙ぐんでいた。


