きっちりと丸いかたちや冬の猫 ④
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前回のあらすじ
ハコは一人暮らしの独り身で、清掃会社勤務の33歳。週一のルーティンで姪の秋穂と姉を迎えに行く〈コクリコ音楽教室〉は、ヒステリックな絢香ちゃんママの出現以来、ストレスフルな時間になってしまった。出口のないこの状況で帰り道、坂道の家の出窓にくっついて、熟睡しているミケと過ごす時間は、ハコにとって魔法のようなカンフル剤だった。

三月に入り、桜の開花予想が聞こえるようになったころ、木曜日のルーティーンでコクリコ音楽教室を訪れると、待合室には大きな図鑑を手にした彩花ちゃんが一人で待っていた。秋穂と顔が合うと大喜びで、
「あっちゃん、これ見よう!」
なんと、最新の恐竜図鑑だ。この子の興味は広がりまくっている。
たちまち恐竜モードになった女の子たち。わたしは彩花ちゃんママのことが気がかりで、練習室の方に耳をダンボみたいにしてみたけれど、何も聞こえない。
「彩花ちゃん、ちょっとごめんね。今日は、ママは――」
「ん?」
彩花ちゃんは図鑑から目を上げると、小さな前歯をのぞかせて、ちょっと笑った。
「ママ、レッスン見てるの」
え? 毎週木曜日、この時間帯のレッスン生は、彩花ちゃんとうちの姉だけのはずだ。
すると、今度は秋穂が言う。「うちのお母さんのレッスンを見学してるんだよ。約束してたんだって」
いったい全体どういうことだ。わたしは頭のなかが混乱のカクテルになってしまって、うろうろと練習室の方に歩み寄った。と、そのタイミングで手前の練習室の防音扉が開き、加奈子先生を先頭に、姉と彩花ちゃんママが出てきた。
三人とも楽しそうな顔をしている。フレンドリーじゃないか。どうしたの?
「あ、ハコちゃん、お待たせ」
何ですか、お姉ちゃん。そのしれっと平和そうな笑顔は。
彩花ちゃんママは、わたしの視線に気がつくと、恥ずかしそうに下を向いた。
「彩花、帰りますよ」
「え~、もうちょっと」
「あっちゃんには、来週また会えるでしょ」
あっちゃんだって。わたしの知らないところで、少しずつ雪解けが進んでいたってこと?
買い物をして実家へ向かう道々、姉が話してくれた。
「先週、わたしがレッスンに行ったら、彩花ちゃんママが古いピアノの前に座ってたの」
音楽の神様の奇跡を待ちわびて。
「彩花ちゃんはソファで図鑑に夢中でね。秋穂が貸してあげた南の海の魚たちの図鑑だったんだけど」
姉は、古びたピアノの前にちんまりと座っている彩花ちゃんママの背中を見て、ふと思いついてしまった。
で、口に出してしまった。
「よかったら、いっしょにピアノのレッスンをしませんかって」
姉はもともと優秀なキャリアウーマンだったのだから、本気を出せば弁が立つ。プレゼンの能力は抜群だ。
「音楽の神様の奇跡が彩花ちゃんの上に降りてくるのを待つあいだに――どれくらいかかるかわからないんだから、その時間に、あなたはわたしとピアノを習いませんか。楽しいですよ。日常の憂さを忘れられますよ。少しずつでも上手になると、心がはずみますよ」
そして姉は、たぶん、このプレゼンのなかでもっとも重要なことを口にした。
「いっしょに学びましょうよ、あゆみさん」
彩花ちゃんママではなく、名前を呼んだのだった。
「彼女はうろたえてたけど、わたし、前向きに考えてみますって返事を引っ張り出すまで、逃がさなかったの。先週ハコが来たとき、あゆみさん、いつもと様子が違わなかった?」
どうだったろう。わたしの顔を見ないようにして、窓際のスツールに座って、いつものようにスマホをいじって――いなかったか。窓から外を見てたかなあ。
「とにかく、一歩前進よ」
姉は嬉しそうだった。難しい交渉に、最初の糸口を見つけたみたいに。
「わたし、本当にあゆみさんといっしょにレッスンを受けられるといいと思ってるの。加奈子先生も賛成してくれたしね」
――これは名案ですね。奇策だけど、これ以上の解決策はありません。
ママさん本人にこそ、音楽を学ぶ喜びを味わってもらおう。
「あたし、やっぱりお姉ちゃんにはかなわないわ」
わたしが言うと、姉は笑ってわたしの背中をぽんと叩いた。
「何言ってるの。わたしには、ハコの半分の強さもない。小さいころからずっと、ハコはわたしのお手本だったんだから」
そんなことがあるわけないのに。思いながらも、その言葉が心に染みこんでくるのを止めることはできなかった。


