月よ照らせ通天閣の青蜥蜴 ②

続 ぼんぼん彩句

更新

前回のあらすじ

通天閣に鮮やかな青色のコスチュームに身を包んだ人物が止まっている!? 中三の同級生のグループLINEがテレビ中継されているそのニュースに騒然としている間、わたしはある人物を思い出していた。それは人でがなくただの凧だとわかってしまうまでのわずかなあいだ、通天閣のてっぺんを目指していた青いトカゲは、確かに、あの日のオリオリに見えた―。

イラスト 出口えり
イラスト 出口えり

     *

 わたしたちが住んでいた町は、首都圏の片隅にあった。夏は暑く、冬は寒く、古くから青物と葱の産地で有名だったところで、昭和五十年代から宅地化され分譲され始めた住宅地も、昔は農地だったからどこまでも平らで、風の強い日は土埃がすごかった。
 公立中学校は二つで、歴史ある古いものと、新興住宅地に移ってきた新しい町民の子供たちのための新設校。わたしとクラス会のメンバーが通っていたのは新設校の方だった。新しいといっても相対的な意味に過ぎないから、洒落た造りの学校だったわけではない。L字型の校舎と体育館が校庭を囲んでいて、三階建ての校舎の屋上のぐるりには、先端が内側に折り返された丈の高い柵が巡らされていた。
 グループラインのクラス会のメンバーは、三年A組のときの同級生たちだ。男子十四名、女子十三名で二十七名。新設校の方は生徒数が少なかった時代で、わたしたちの学年は同じ人数のクラスが二つだった。
 良い意味でも悪い意味でも目立つ学校ではなかった。いじめの問題がまったく存在しなかったとは思わないし、どこかの学年の教室が荒れて先生が困ったなんてことも、一度ぐらいはあったとしても不思議じゃない。でも印象に残ってはいない。三年生の秋に起きた一つの出来事が大きすぎたので、他のことが吹っ飛んでしまったのかもしれない。
 わたしたちの学年は合わせて五十四名だったので、全員の顔と名前が一致するようにという方針で、一年から二年に上がるときも、二年から三年に上がるときもクラス替えがあった。二年から三年のときは、それに加えて担任と副担任を合わせて四人の先生の顔ぶれが替わった。これは病気で急に退任することになった担任の先生と、出産後に復帰する予定だったのに、できなくなった副担任(予定)の先生がいたからで、学校にとっても想定外の事態だったらしい。
 その結果、三年A組は、中学校教諭になって三年目、二十五歳の若さの男の先生が担任することになった。副担任は三十三歳の女の先生。隣のB組は学年主任で五十五歳の男の先生が担任し、副担任は二十八歳の女の先生という配置だ。副担任の先生は、二人ともその年度に他の学校から異動してきたばかりだった。
 わたしたちA組の担任、英語教師の先原律さきはらりつ先生は、それまでの二年間を一年生の副担任としてすごし、すっかり人気者になっていた。高校、大学とバドミントン部にいたそうで、うちの学校でも男女バドミントン部の顧問兼コーチを務めていて、そこでも部員たちから親しまれていた。外見は爽やかなハンサム。背丈こそやや小柄だったものの、いわゆる「細マッチョ」のスポーツマンタイプで、若さに溢れていた。先原先生がA組の担任になるとわかると、主に女子たちのあいだから、歓声と「いいなぁ」という声がわきあがったくらいだった。
 保護者たちのあいだでは、「一、二年生ならまだしも、受験を控えた三年生の担任になるには若すぎる」「頼りない」、弁の立つ先生だったので「口だけは達者」などの厳しい意見もあった。学校側も、「受験生を担任するには早すぎる」という批判は覚悟していたのだろう。本人の先原先生と相談して、
「若いからこそ、自分自身の受験期の記憶がまだ鮮やかなので、体験をもとに、より親密に生徒たちに寄り添うことができる」
 という抗弁を用意していた。
 まあ、実際問題として人手不足だったのだし、「若い」「頼りない」という印象論の反対意見だけでは人事を動かすことはできなくて、先原先生は無事A組の担任に収まった。